心理的安全性
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水曜日の落書き帳
ホシノ電工には、水曜の朝までに社内掲示板へ新しい商品の案をひとつ書く、という決まりがあった。社員三十四人、全員が対象。ただし役員は書かないし、読まない。それが十年続いている。
企画課の宮下志保は、その掲示板が好きだった。好きだったが、この一年は苦しかった。彼女の書いた案はどれも「面白いね」で流れ、...
稼働率九十八パーセント
分散勤務に切り替えて四か月、営業支援部の数字は悪くなかった。見積書の作成件数は前年比で一割増え、差し戻し率は下がった。宮下がその二つを月次資料に並べたとき、役員の一人が短く言った。
「では、なぜ受注は伸びていない」
宮下は答えを持たなかった。持っていないというより、答えの形が数字になっていなかっ...
隙のない人
七時十五分。椎名遥は関西支社の鍵を開けた。
久米屋食品の業務用調味料部門で、女性が支社長になるのは初めてだった。着任の日に本社の役員から「前例をつくってください」と言われて、彼女は微笑んで頷いた。前例。つまり、失敗できないということだ。
彼女は自分に規則を課した。誰よりも早く来る。数字は前日のう...
勘定科目にない資産
産業用センサーをつくる東和テクノで、品質保証部の八木誠一が退職願を持ってきたのは、期末の山を越えた火曜の午後だった。
「一身上の都合ということで、お願いします」
八木は白い封筒を机に置くと、それ以上何も言わなかった。課長の沢渡は封筒を裏返したり戻したりしながら、この十年で八木と交わした会話の総量...
反対の席
高梨怜が入社した頃、企画部の会議室には楕円のテーブルがあった。今はもう、ほとんど使われていない。会議はオンラインに移り、議題は事前に共有シートへ書き込む方式になった。誰かが意見を置けば、その下に賛同のスタンプが並ぶ。手のひら、拍手、親指。会議そのものは十五分で終わる。効率という物差しで測るなら、これ...
点のつかない部屋
坂内あかりが社内基盤「ひろば」の担当になったとき、社長から言われたのは一言だった。「部署の壁を薄くしてくれ」
ミナカワ生活研究所は、洗剤や台所用品をつくって六十年になる。工場と開発と営業が、それぞれの言葉で仕事をしていた。同じ製品の話をしていても、三つの別の話に聞こえた。坂内はその三つを一つの部屋...
開けなかった扉
明和企画の田上のもとに、その男から最初の電話がかかってきたのは、水曜の夕方だった。
「至急、御社と組みたい案件がある」。声は妙に早口で、会社名を尋ねてもするりと流された。要件を問えば「詳しくは会ってから」の一点張り。三十分のあいだに四度かけ直してきて、最後にはこう言い放った。「今日中に返事がなけれ...
下っ端になりに来た男
高瀬調理器具製作所の二代目社長・高瀬誠一は、五十二歳にして、自分の会社の組み立てラインに「見習い」として立っていた。
きっかけは、隣町の小さな金属加工会社「フジワラ製作所」だった。高瀬の工場が三日かかる工程を、その町工場はなぜか半日で終える。同じ機械、同じ材料、同じ人数。からくりが知りたくて頭を...
ブレーキの地図
桐島慎一は、社内で「止め男」と陰口を叩かれていた。
中堅のシステム開発会社で品質管理マネージャーを務める彼は四十三歳。会議のたびにリスクシートを配り、新機能のリリース判定では必ず最後まで賛成の手を挙げなかった。その場にいるだけで議論の体感温度が二度は下がる。同僚からは「また桐島が止める」と嫌がら...
外の足場
中堅の精密機器メーカー「アルファ計測」の品質保証本部長、加村剛は社内で「鬼の加村」と呼ばれていた。月次の不良率報告会では、数字を出せなかった工場長を二時間近く立たせて詰める。論理の穴を突き、口ごもりを許さず、最後は深く頭を下げさせる。それが二十年来の彼のやり方だった。
入社六年目、品証企画課の藤村...
燃料を断つ
営業三課の課長、柴田真紀は、四月の異動で着任した新部長・黒瀬の「手腕」をすぐに見抜いた。
黒瀬はまず、チーム全員に向けて圧倒的な歓迎を見せた。「このメンバーなら必ず結果が出る」「俺はここに来るべくして来た」。一人ひとりの名前を覚え、過去の実績を引用して褒め、ランチに誘い、相談に乗った。着任一週間...
一ミリの隙間
新製品の企画書を前にして、園田美咲は三度目のため息をついた。
マーケティング部の主任に昇進して半年。任されたのは、老舗食品メーカー「丸星フーズ」の新ブランド立ち上げという大仕事だった。美咲はこの仕事に全身全霊を注いでいた。企画書の文言を何十回も書き直し、プレゼン資料のフォントサイズを一ポイント単位...
伝え方の温度
製造業の中堅メーカー・丸栄精機の品質管理課に着任した新任課長の桐生和也は、着任早々、部下たちの仕事ぶりに頭を抱えていた。
前任の課長が「のびのびやらせる」方針だったこともあり、報告書の書式がバラバラ、検査手順の省略も散見される。桐生は前職で徹底した品質管理を実践してきた自負がある。このままでは取...
声の重さ
システム開発会社ネクストウェーブで、チームリーダーの黒田俊一は六人のエンジニアを率いていた。その中で最も頼りにしていたのが、入社五年目の園田健太だった。
園田は口数こそ少ないが、納期前のトラブルでも黙々とコードを書き続け、チームを何度も救ってきた。黒田にとって園田は「放っておいても大丈夫な人間」だ...
失点の記憶
営業部の中堅社員、川島誠一は、三年前の記憶から逃れられずにいた。
当時、彼は新規事業チームのリーダーとして、会社の命運を賭けた大型プレゼンに臨んでいた。相手は業界最大手の製造会社。受注できれば、会社の売上は一気に三割増となる案件だった。
プレゼン当日、川島は完璧な準備をしていたはずだった。しかし...
「今日、何を聞いた?」
営業企画部の課長・高梨誠一は、部下たちの顔を見渡しながら額に手を当てた。
「なぜ誰も質問しないんだ」
新製品のマーケティング会議が終わった直後のことだった。本部長からの説明を聞いている間、高梨は何度か振り返った。だが、八人の部下は全員、無表情でメモを取っているだけだった。
「高梨くん、君のとこ...
最後の一杯
青山の路地裏にある小さなバー「風見鶏」で、山崎達也は三十年間カウンターに立ち続けていた。
その夜、常連の大手広告代理店専務・川端が、いつもより早い時間に姿を見せた。
「マスター、いつもの」
川端はスツールに腰を下ろすと、乱暴にネクタイを緩めた。山崎は黙ってハイボールを差し出す。
「今日、つい...
ぬるま湯の中で
人事部の大森課長は、退職届を見つめていた。今月で三人目だ。
「また若手ですか」
隣の席の吉田が溜息をついた。
「ああ。入社二年目の藤本くん。一度も怒ったことないのに」
大森は頭を抱えた。三年前、会社は大きく変わった。パワハラ問題をきっかけに、管理職研修が刷新され、「心理的安全性」という言葉が...
一応、確認なのですが
会議室の空気が、目に見えて淀んでいた。
森山食品マーケティング部の新商品開発会議。テーブルには「次世代ヘルシースナック」と銘打たれた企画書が広げられ、部長の黒田をはじめとする七名が難しい顔で腕を組んでいる。
「で、結局どうするんですか」
開発チームの中堅、早川が沈黙を破った。十五年この部署で働...