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ショートストーリー
水曜日の落書き帳
ホシノ電工には、水曜の朝までに社内掲示板へ新しい商品の案をひとつ書く、という決まりがあった。社員三十四人、全員が対象。ただし役員は書かないし、読まない。それが十年続いている。
企画課の宮下志保は、その掲示板が好きだった。好きだったが、この一年は苦しかった。彼女の書いた案はどれも「面白いね」で流れ、商品にならない。会社は大手向けの部品加工で食えている。自社ブランドの棚は、五年前に出した卓上扇風機で止まったままだ。
「自分たちの名前で売れるものを、一度でいいから出したいんです」
去年の面談でそう言ったとき、品質管理部の柏木部長は湯呑みを置いてから答えた。
「うちの名前で出すなら、恥ずかしくないものにしないと」
その言葉に反論できないまま、志保は水曜日ごとに落書きのような案を書き続けた。
転機は、小さな不満から来た。
その冬、志保は昼になるたび、給湯室まで歩くのが億劫だった。四階の給湯室は遠く、電子レンジには行列ができる。机で食べたい。机で温めたい。それだけの話だ。
水曜日、彼女は書いた。「机の上に置ける、一人分の蒸し器。持参したおかずとご飯を、席にいながら温められる」
反応は速かった。技術課の若手が「熱の回りを考えると、丸より四角のほうがいい。側面までヒーターを回せる」と書き込む。別の誰かが「そんなに小さいなら、コードは巻き取り式にしないと机が汚い」と続く。三日で書き込みは四十を超えた。
試作品ができたのは、二か月後だった。灰色の、角ばった箱。会議室の机に置かれたそれを見て、総務の派遣スタッフがぽつりと言った。
「……お弁当箱みたいですね」
沈黙が落ちた。志保は自分の手が冷たくなるのを感じた。
「じゃあ、これで食べればよくないですか」
言ったのは、その派遣スタッフ本人だった。「温めた後、そのまま蓋を開けて食べて、洗って持って帰る。器を別に持ってくるほうが変です」
その日のうちに、掲示板は荒れた。荒れた、というのは、盛り上がったという意味だ。「匂いが残るから内側はステンレスに」「職場で洗うなら、片手で持てる重さまで」「そもそも蒸すって何分かかるの」——最後の問いが、いちばん痛かった。試作機は、十分に温まるまで三十五分かかっていた。昼休みが終わってしまう。
柏木部長が会議に呼ばれたのは、その段階だった。
「三十五分は商品になりません」部長は言った。「熱源の設計をやり直して、外装の耐熱も詰めて、それから出す。一年半、いただきたい」
「一年半あれば、たぶん似たものが出ます」志保は言った。「十五分まで縮めて、まず出したいんです。使ってもらってから直したい」
「直す前提のものを、うちの名前で出すんですか」
「完璧なものを、誰にも見せないまま抱えているほうが、私は恥ずかしいです」
言ってから、志保は自分の声が思ったより大きかったことに気づいた。
部長はしばらく黙っていた。それから、机の上の試作品を持ち上げ、両手で重さを確かめるようにした。
「……発熱の暴走だけは、絶対に起こしてはいけない。そこは譲りません」
「はい」
「そこさえ潰れているなら、温まりが遅いのは、欠陥ではなく仕様です」
部長は、そう言った。仕様、という言葉を、志保は初めて味方だと思った。
半年後、「デスクスチーマー」は十六分まで縮めて発売された。初回入荷分は九日で消えた。買った人たちは、会社が想像もしなかった使い方を書き込んだ。離乳食を温める人、夜勤の詰所で使う人、山小屋に持ち込む人。二年目の改良で温まりは十一分になり、蓋は片手で開くようになった。どの改良も、社内の誰かの思いつきではなく、外の誰かの不満から来ていた。
柏木部長は定年間際に、水曜の掲示板に初めて書き込んだ。役員ではなくなっていたからだ。
「電源コードが硬い。冬場、机の上でとぐろを巻く」
翌週、その案には十二の返信がついていた。
不満は、誰かがそれを口に出せる場所を見つけたときだけ、商品になる。
論考
未完成を出荷できる組織の条件
新しい商品やサービスを世に出すとき、組織は二つの規律のどちらかを選んでいる。完成させてから出す規律と、出しながら完成させる規律だ。前者は品質の一貫性を守り、後者は学習の速度を買う。どちらが優れているかという問いは、実は問いとして粗い。正しくは「この製品の失敗は、出荷後にやり直せるか」という問いに置き換わる。やり直せるなら後者が有利で、やり直せないなら前者しかない。(問い:自社の主力商品は、出荷後に何を、どのくらいの費用で修正できるか。)
出しながら完成させる方式が機能する組織には、共通して二つの装置がある。ひとつは、外の不満が中に届く経路。もうひとつは、中の思いつきが誰にも検閲されずに並ぶ場所だ。後者は軽視されがちだが、決定的である。上位者が同席する場では、案は出た瞬間に評価され、評価されたものは修正しにくくなる。未熟なまま並べておける場所があるからこそ、他人がその上に積める。(問い:自社の新しい案は、決裁者の目に触れる前に、何人の同僚の手を経ているか。)
ただし、この方式は万能ではない。回収に多額を要する耐久財、人命に関わる機器、規制の厳しい産業の製品では、未完成の出荷は単なる無責任になる。また「まず出す」は、しばしば「詰めきらないことの言い訳」に転用される。速度を口実にした手抜きと、学習を目的とした暫定版は、外から見れば区別がつかない。両者を分けるのは、出した後に本当に直したかという事実だけだ。(問い:直近に出した暫定版のうち、実際に改良版まで到達したものは何割か。)
したがって境界線は「完璧か否か」ではなく、「譲れない一線がどこにあるか」の明示にある。安全は譲らない、速度性能は譲る。この線引きが言語化されていれば、未完成は欠陥ではなく仕様になる。逆に線引きが曖昧な組織では、品質を守る側は「全部だめだ」としか言えず、前に進める側は「全部やらせろ」としか言えない。対立の正体は価値観の差ではなく、基準の不在であることが多い。(問い:自社の「絶対に譲らない品質」は、何項目、文章で書き出せるか。)
組織の規模は、この方式の可否をあまり決めない。決めるのは、誰の不満が起点になれるかだ。作り手自身の生活上の面倒——遠い給湯室、乾かない洗濯物、面倒な片付け——は、市場調査より速く、しばしば正確である。ただしそれが個人の愚痴で終わるか商品になるかは、その面倒を他人が笑いながら改造できる場が社内にあるかどうかにかかっている。(問い:直近一年の成功商品は、誰の、どんな私的な不便から始まったか。)
### 実務への含意
- 「譲れない品質」と「後で直せる品質」を分けて明文化する。分けない限り、速度をめぐる議論は感情論にしかならない。
- 案が生まれる場と、案を決裁する場を分離する。決裁者が観客席にいる場所では、未熟な案は最初から出てこない。
- 暫定版を出したら、改良版に到達した比率を測る。この比率が低い組織では、「まず出す」は品質放棄の別名になっている。
### 参考文献
- 『リーン・スタートアップ』エリック・リース(日経BP)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4822248976?tag=digitaro0d-22)
- 『恐れのない組織――「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』エイミー・C・エドモンドソン(英治出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4862762883?tag=digitaro0d-22)
- 『イノベーションのジレンマ 増補改訂版』クレイトン・クリステンセン(翔泳社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4798100234?tag=digitaro0d-22)
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