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待てば戻る、と誰もが言った
三ツ木精機の第二工場は、その朝も静かだった。
生産管理部の宮下佳奈は、稼働ボードの前で立ち止まる。十二本あるラインのうち、動いているのは四本。残りは白いカバーをかけられ、蛍光灯の光をぼんやりと返している。三か月前まで、ここは夜まで音が絶えなかった。
主力顧客の設備投資が一斉に止まった。理由は一つ...
見本のない棚
三崎パッケージ工業の営業二課に、津田悠介は九年勤めている。菓子メーカー向けの紙箱を売る仕事だ。課の壁一面を、試作品を並べた棚が占めている。津田は客先に持っていく箱を、いつもその棚から選ぶ。棚にない形は、そもそも提案のしようがない。
津田の望みは、はっきりしていた。三十五で主任、四十で係長。父も似た...
水曜日の落書き帳
ホシノ電工には、水曜の朝までに社内掲示板へ新しい商品の案をひとつ書く、という決まりがあった。社員三十四人、全員が対象。ただし役員は書かないし、読まない。それが十年続いている。
企画課の宮下志保は、その掲示板が好きだった。好きだったが、この一年は苦しかった。彼女の書いた案はどれも「面白いね」で流れ、...
稼働率九十八パーセント
分散勤務に切り替えて四か月、営業支援部の数字は悪くなかった。見積書の作成件数は前年比で一割増え、差し戻し率は下がった。宮下がその二つを月次資料に並べたとき、役員の一人が短く言った。
「では、なぜ受注は伸びていない」
宮下は答えを持たなかった。持っていないというより、答えの形が数字になっていなかっ...
普通でいいんだよ
郷田真希が白河産業のブランドマネージャーに任じられた日、上司は一枚の折れ線グラフを見せた。台所用洗剤「まいにち」。二十五年間、ほとんど水平な線だった。
「悪くない。でも、話題がない」と上司は言った。「君の代で、何か起こしてほしい」
何かを起こす。郷田はその言葉を待っていた気がした。前の部署では新...
三年目の物差し
紙コップのコーヒーが冷めていくのを、水島は見ていた。
会議室のスクリーンには、外部の助言者がつくった資料が映っている。入社三年以内に「基礎資質スコア」を測り、上位二割を幹部候補として確定させる。残りは実務職として育てる。人材開発課の課長である水島に求められていたのは、その制度の設計だった。
「早...
反対側の椅子
南雲食品工業の第二会議室は、いつも空調が効きすぎている。
郡司美咲は、手元の資料を三度めくり直した。業務用ソースの定期配送サービス。飲食店が発注を忘れても、これまでの使用量から自動で補充する仕組みだ。半年かけて三十軒の店を回り、そこで何度も聞いた「切らして困った」という言葉を、そのまま企画書に変え...
教科書は、最後のページから
常盤精機の営業企画課長・宮下弘之のデスクには、背表紙の折れた統計学の入門書が三冊、立てて並べてあった。買ったのは春で、いまは秋だ。しおりは三冊とも、第二章の途中で止まっている。
会社は産業用ポンプを四十年つくってきた。売って、納めて、終わり。そういう商売だった。ところが去年、いちばん大きな取引先が...
隙のない人
七時十五分。椎名遥は関西支社の鍵を開けた。
久米屋食品の業務用調味料部門で、女性が支社長になるのは初めてだった。着任の日に本社の役員から「前例をつくってください」と言われて、彼女は微笑んで頷いた。前例。つまり、失敗できないということだ。
彼女は自分に規則を課した。誰よりも早く来る。数字は前日のう...
勘定科目にない資産
産業用センサーをつくる東和テクノで、品質保証部の八木誠一が退職願を持ってきたのは、期末の山を越えた火曜の午後だった。
「一身上の都合ということで、お願いします」
八木は白い封筒を机に置くと、それ以上何も言わなかった。課長の沢渡は封筒を裏返したり戻したりしながら、この十年で八木と交わした会話の総量...
本棚のない部屋
三月の第二週、青葉フーズシステムズの会議室には、最終面接に残った十四人分の評価シートが並んでいた。
人事課長の宮下は、その紙の束を前にして、去年と同じ違和感を覚えていた。上位に並ぶ名前が、去年と、そのまた去年と、驚くほど似た顔ぶれに見えるのだ。出身校ではない。話し方だ。彼らは一様に、間の取り方が...
履歴書に書けなかった一行
三雲フーズの新規事業室は、社内で「離れ小島」と呼ばれていた。本社ビルの七階、ワンフロアの隅を間仕切りで区切っただけの、八人の部署である。室長の宮下佳子が二年前にこの部屋を任されたとき、上から与えられた条件はひとつだけだった。
「三年で新しい柱を作れ。人はひとりだけ、好きに採っていい」
宮下が選ん...
反対の席
高梨怜が入社した頃、企画部の会議室には楕円のテーブルがあった。今はもう、ほとんど使われていない。会議はオンラインに移り、議題は事前に共有シートへ書き込む方式になった。誰かが意見を置けば、その下に賛同のスタンプが並ぶ。手のひら、拍手、親指。会議そのものは十五分で終わる。効率という物差しで測るなら、これ...
二割の口
沼田健吾は、雑談を在庫だと思っていた。持っていても金にならず、置き場所だけ食う。
業務用厨房機器の商社・西尾テクノに入って七年。担当する既存客は四十社。更新のタイミングは外さないし、見積もりは誰より速い。四半期の数字はいつも中の上。それで十分だと思っていた。
不満があるとすれば、新規開拓の目標が...
注意の残量
生産管理課の朝は、電話の音から始まる。
サンワ精機第二工場で出荷伝票を扱う二階堂圭太は、その日も型番を取り違えた。桁が一つ違うだけの品番が縦に並ぶ製品群で、彼が打ち込んだのは一行下の型番だった。出荷は止まり、客先への謝罪は課長代理の保科佐和子が引き受けた。
「今度こそ、気をつけます」
二階堂は...
点のつかない部屋
坂内あかりが社内基盤「ひろば」の担当になったとき、社長から言われたのは一言だった。「部署の壁を薄くしてくれ」
ミナカワ生活研究所は、洗剤や台所用品をつくって六十年になる。工場と開発と営業が、それぞれの言葉で仕事をしていた。同じ製品の話をしていても、三つの別の話に聞こえた。坂内はその三つを一つの部屋...
差引支給額の下に
相原詩織が総務課に配属されて最初に渡されたのは、A4の紙が一枚だけ入ったクリアファイルだった。給与明細の問い合わせ対応マニュアル。手順は三つしか書かれていない。
「楽な担当だよ」課長の柴田は、自席から振り返りもせずに言った。「月に五件来れば多いほうだ。振込額が合っていれば、誰も何も言ってこない」...
余白のある帳面
巴屋工機の第二工場に、佐久間が生産管理システムの導入案を持ち込んだのは、初夏の朝だった。
本社の企画部から現場常駐に回されて三か月。彼には勝算があった。手書きの日報を電子化すれば、月に四十時間の転記作業が消える。不良の兆候を三日早く掴める。数字は嘘をつかない。会議室のスクリーンに折れ線を映しなが...
二本の矢印
宮下真澄がサンライズ電機・城南店の白物家電売り場に立って、四年目の春だった。
その日、洗濯機のコーナーで足を止めた老夫婦は、しばらく最新型の前で顔を見合わせていた。二十万円を超える、乾燥機能付きの一台だった。
「お二人でお住まいですか」
「ええ。娘は遠くにいるもんで」
「洗濯は、週に何回くらいで...
四十七階の静けさ
三宅製作所の朝は、油の匂いから始まる。試作専門の板金工場で、従業員は三人。二代目の三宅隆之は、月末が近づくと帳簿の右端ばかりを見るようになった。
「ルミナ・デバイスさん、まだです」
経理を兼ねる妻が、言いにくそうに言った。四百八十万円。筐体の試作と治具の費用で、うちの三カ月分の利益に当たる。
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