意思決定
16件の記事
待てば戻る、と誰もが言った
三ツ木精機の第二工場は、その朝も静かだった。
生産管理部の宮下佳奈は、稼働ボードの前で立ち止まる。十二本あるラインのうち、動いているのは四本。残りは白いカバーをかけられ、蛍光灯の光をぼんやりと返している。三か月前まで、ここは夜まで音が絶えなかった。
主力顧客の設備投資が一斉に止まった。理由は一つ...
反対の席
高梨怜が入社した頃、企画部の会議室には楕円のテーブルがあった。今はもう、ほとんど使われていない。会議はオンラインに移り、議題は事前に共有シートへ書き込む方式になった。誰かが意見を置けば、その下に賛同のスタンプが並ぶ。手のひら、拍手、親指。会議そのものは十五分で終わる。効率という物差しで測るなら、これ...
検問所
三ツ輪食品の企画部には、暗黙の作法があった。会議で最初に口を開くのは部長の郷田、最後にまとめるのも郷田。あいだの四十分は、頷きの時間だ。
柏木葉子は入社十四年目の課長代理で、その四十分の作法にかけては部内で一番の腕前だった。角度も、間の取り方も、心得ている。頷きながら、頭の別のところで「本当は違う...
開けなかった扉
明和企画の田上のもとに、その男から最初の電話がかかってきたのは、水曜の夕方だった。
「至急、御社と組みたい案件がある」。声は妙に早口で、会社名を尋ねてもするりと流された。要件を問えば「詳しくは会ってから」の一点張り。三十分のあいだに四度かけ直してきて、最後にはこう言い放った。「今日中に返事がなけれ...
見えないボタン
沢渡結衣が中途で入った会社は、社員十二人の小さな設計事務所だった。図面の腕を買われての採用だったが、初日から彼女を消耗させたのは図面ではなく、その手前にある無数の「名もなき手間」だった。
見積書を一枚出すのに、まず前の案件のファイルを探すところから始まる。どのフォルダにあったか、番号は何番まで進ん...
捨てなかった一台
高村製作所の試作課で、相田は一台の機械のスイッチを切った。導入してまだ三か月、期待の新型だった。一枚の原型から二十通りの試作を一気に起こせる——営業がそう言うから飛びついた。だが仕上がる部品は、どれも角が甘く、量産品のような安っぽい肌になった。手元の一枚が持っていた張りのある質感が、機械を通すたびに...
全方位の人
金曜の夕方、製造ラインで小さな事故が起きた。出荷を待つ製品が台ごと傾き、検品にあたっていたスタッフが手をかすめて軽い怪我を負った。縫うほどではない。だが誰かが撮った写真がその夜のうちに広まり、週末を待たずに「管理体制はどうなっている」「安全を軽んじている」という声が積み上がっていった。
月曜の朝、...
見出しの釣り針
朝の編集会議で、高梨の記事はPVが部内最下位だった。地方の事務手続きにミスがあり、納付が十日遅れて数万円の延滞金が生じた――ただそれだけの、地味な記事である。
「内容は正確です」と高梨は言った。
「正確さは前提だよ」編集長は静かに返した。「読まれなければ、書いていないのと同じだ」
彼はホワイトボ...
保留ボタンの外れる音
中堅の食品メーカー「みなも食品」の企画課で、佐久間結衣はもう七年、同じ机に座っていた。
仕事は、悪くなかった。定番のふりかけと佃煮を扱う部署は、売上が大きく伸びることもない代わりに、落ち込むこともない。上司の田添課長は穏やかで、残業も少なく、同期からは「いい部署に当たったね」と言われる。給料はまあ...
終いの名刺
山本 拓也は、駅前の雑居ビルの一室で「事業撤退支援コンサルタント」を名乗っていた。
看板の文字は太いゴシック体で、雨の日も晴れの日も通りすがりの人の目に入るよう設えてあった。開業して四年になるが、地元商工会の古参会員たちは今でも顔をしかめる。
「山本くん、少し前向きな名前にしてはどうかね」と理事...
窓際の灯
中堅機械商社の情報システム室は、フロアの一番奥にあった。山岸かおるは三十五歳、入社十年目で、長らく社内の発注画面の細かな改善を一人で担ってきた。「ここに一行コメント欄があると現場が助かる」「この検索は曖昧マッチでないと使われない」――そういう声を拾っては、夜中にこっそり手を入れる。利用者からの礼が、...
帆柱の営業課長
田所は、提案資料を閉じる手を止めた。スマホには、半年前まで担当していた旧クライアントの社長、岡部からの誘いが届いている。
「来月、福岡で役員会がある。終わりに私の親しい役員も交えて夕食を、と思っているんだ。費用は気にせず来てくれ、というわけにはいかんが、来てもらえるなら、おそらく次の案件は田所さんに...
三つの財布
経理部の水野真紀は、予算会議の資料を前に眉をひそめていた。
社員研修プログラムの年間予算が、昨年比で二割も増えていた。提案者は人事部の佐伯課長。水野が経理として異動してきてからまだ四か月、社内の力学はまだ読みきれない。だが数字の異常は見逃せなかった。
「佐伯さん、この外部講師の費用なんですが。一...
情報室の灯り
総合商社「丸和物産」の情報管理室は、本社ビル十八階の奥まった場所にあった。窓のない部屋に、青白いモニターの光だけが浮かんでいる。
室長の戸塚誠一郎は、この部屋で二十年を過ごしてきた。各国の政治経済動向、競合他社の動き、取引先の信用情報――あらゆるデータがこの部屋に集まり、戸塚の手で分析され、経営陣...
響かない声
広告代理店ブライトハウスの会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
「若い女性に刺さるメッセージって何だと思う?」
クリエイティブ部長の杉山は、壁に映し出されたスライドを見つめながら問いかけた。クライアントは大手アパレルブランド「フローラ」。来春のキャンペーンに向けた企画会議だった。
「やっぱり...
動かない迷路
企画部の須藤拓真は、会議室の窓から外を眺めていた。
午後三時。本来なら資料を作成しているはずの時間だ。しかし彼は、机の上に広げたノートを前に、もう一時間以上同じ場所に座っていた。
「須藤、まだ考えてるのか」
ドアを開けたのは、先輩の工藤だった。五十代半ば、入社以来ずっとこの会社で働いてきた人だ...