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ショートストーリー
勘定科目にない資産
産業用センサーをつくる東和テクノで、品質保証部の八木誠一が退職願を持ってきたのは、期末の山を越えた火曜の午後だった。
「一身上の都合ということで、お願いします」
八木は白い封筒を机に置くと、それ以上何も言わなかった。課長の沢渡は封筒を裏返したり戻したりしながら、この十年で八木と交わした会話の総量を思い出そうとした。仕様の確認。不具合の報告。承認印。それだけだった。
腕は確かな男だ。八木の書く検査手順書は社内で一番読みやすいと言われていて、他部署からも名指しで依頼が来る。ただ、昼は一人で食べ、飲み会には来ず、廊下では視線を落として歩いた。
「どこか、行き先は決まってるのか」
「……いえ」
「じゃあ、なぜ」
八木は少し考えてから言った。
「たぶん僕は、ここに要らないので」
その週の部会で沢渡が退職の件を報告すると、部長の宮内は資料から目も上げずに言った。
「まあ、ああいうタイプはどこ行っても同じだよ。技術はあっても、人と組めないんじゃな」
「組めない、というのは」
「協調性の問題だろ。社会人として当たり前のことだ」
「当たり前、ですか」
「そう。教わるようなことじゃない」
沢渡は黙った。反論の言葉はあったが、口にすれば自分の来歴まで話すことになる。
入社して三年目まで、沢渡も飲み会の席で一言も発せない人間だった。変わったのは、当時の主任が「沢渡、この治具の説明、来週の朝礼でやってくれ」と押しつけてきたからだ。三分の説明は震え声で終わり、誰も質問しなかった。それでも次の月にまた押しつけられた。四回目くらいから、終わったあとに人が寄ってくるようになった。技術の話なら、沢渡は話せたのだ。話せる場所を用意されるまで、それを自分でも知らなかった。
自然に身についたわけではない。誰かが押しつけたのだ。
翌週、沢渡は八木の席へ行った。
「測定のばらつきの件、部内で勉強会をやりたい。講師を頼めないか」
「僕は、そういうのは」
「手順書に書いてあることを、そのまま口で言うだけでいい」
「向いてません」
「向き不向きの話じゃない。誰も分かってないから困ってるんだ」
三日粘って、八木は「三十分だけ」と条件をつけた。
当日、八木はスライドを棒読みした。笑いも間もなく、会議室の空気は乾いていた。二十七分で終わり、沢渡が礼を言って解散になった。
だが、若手の堂本ともう一人が席を立たなかった。堂本が手を挙げて聞いた。
「あの、三枚目の分布のところ、うちのラインでも同じことが起きてる気がするんですけど」
八木の目が動いた。少し早口になった。ホワイトボードにペンを走らせ、実際の測定値を書き出し、この条件だと治具の固定が甘い、と言った。堂本がさらに聞き、八木がまた書いた。窓の外が暮れて、蛍光灯が白く目立ってきた頃、気づけば一時間が過ぎていた。
出ていく三人の背中を、沢渡は会議室の後ろから見ていた。八木は堂本の半歩前を歩き、まだ何か説明していた。
ひと月後、八木が沢渡の机に来た。
「次のテーマ、決まってますか」
「まだだ。何かあるか」
「校正周期の話なら、少し」
八木はそれだけ言って戻っていった。退職願には触れなかった。沢渡も触れなかった。封筒は引き出しの奥に入れたままだ。いつ出すことになるかは、まだ分からない。
宮内部長は今も、あれは本人の資質だと思っているだろう。技術のある人間が去るのは惜しい、しかし仕方がない、と。その評価は帳簿のどこにも記載されない。八木が抜けた穴の大きさも、抜けなかったことの価値も、数字にはならない。
才能のように見えるものの多くは、誰かに押しつけられた最初の一回から始まっている。
論考
関係資本という、帳簿に載らない格差
健康と幸福をもっともよく予測するのは、収入でも学歴でもなく、良好な人間関係である。数十年にわたる追跡研究がたどり着いた結論は、意外なほど素朴だ。そして重要なのは、それが関係の「数」ではなく「質」だという点にある。家族がいても、同僚に囲まれていても、孤立は成立する。逆に、接点の少ない人が良質なつながりを保っていることもある。──あなたの職場で「関係の質」を測っている指標は、ひとつでも存在するだろうか。
では質はどこから来るのか。鍵になるのが、社会学で「感情資本」と呼ばれるものだ。自分の感情を調整し、相手の感情に応じ、場に合わせて自己を表出する能力を指す。あいさつの間合いから根回しの順序まで、これは日常のあらゆる場面に付いて回る。そして厄介なことに、これは資産と同じく初期配分に差がある。育った環境、通った学校、最初に配属された職場。スタートラインは平等ではない。採用面接で「なんとなく合わない」と落とされるとき、実際に測られているのはこの資本であることが多い。──直近の不採用理由のうち、職務遂行能力ではなく所作に関するものは何割だっただろうか。
ただし、これを個人の「能力」と呼び切ることには無理がある。関係は相互作用であり、片方の技量だけで決まるものではない。同じ人物が、ある部署では寡黙な変人と呼ばれ、別の部署では頼れる相談役になる。求められる水準も職種によって不当に膨らみがちで、本来は技術を評価すべき仕事に営業的な社交性が持ち込まれることも珍しくない。さらに、誰と親しくなるかは席の位置、担当業務の重なり、会議体の設計といった環境要因に強く左右される。──孤立している人の周囲の配置を一切変えないまま、本人の変化だけを求めてはいないだろうか。
そう考えると、感情資本は生まれつきの資質ではなく、特定の条件下でのみ習得される技能だと捉え直せる。人は自分の得意な話題を持ち出せる場に置かれたとき、はじめて話せるようになる。「自然に友達ができる」と語る人の自然も、後天的に獲得されたものだ。だとすれば、練習の場を用意する責任は組織の側にもある。しかもその場は、深い一対一の関係を目指すより、共通の話題を軸にしたゆるやかな接点を複数つくるほうが再現性が高い。心を開かせようとする面談より、専門テーマの小さな勉強会のほうが効く。──半年のあいだに、部内で新しい接点が何回生まれたか、数えられるだろうか。
この視点を欠いたまま「コミュニケーションは社会人として当たり前」と切り捨てると、格差はそのまま放置される。そして結果は、離職率にも定着率にも明示されない形で現れる。「一身上の都合」という言葉の下に、話す場を与えられなかった数年が沈んでいる。関係資本は貸借対照表に載らないが、失われるときは確実に何かを持っていく。──退職面談で本当に聞き出せているのは、辞める理由だろうか、それとも辞めない理由がなかったことだろうか。
**実務への含意**
- 孤立の是正を本人の努力に帰さず、席・担当・会議体といった接点の設計を先に変える。相手を変えるより配置を変えるほうが速い。
- 親睦目的の懇親会より、専門テーマの小さな勉強会や持ち回りの発表を仕組みにする。得意分野を語れる場が、話す技能の最良の練習場になる。
- 評価面談で「誰と、どんな仕事の話をしたか」を確認する。関係の数ではなく、業務を通じた接点の質と本数を把握する。
### 参考文献
- 『グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない』ロバート・ウォールディンガー、マーク・シュルツ(辰巳出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/477783039X?tag=digitaro0d-22)
- 『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』宇田川元一(NewsPicksパブリッシング)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4910063013?tag=digitaro0d-22)
- 『心理的安全性のつくりかた』石井遼介(日本能率協会マネジメントセンター)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4820728245?tag=digitaro0d-22)
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