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ショートストーリー
隙のない人
七時十五分。椎名遥は関西支社の鍵を開けた。
久米屋食品の業務用調味料部門で、女性が支社長になるのは初めてだった。着任の日に本社の役員から「前例をつくってください」と言われて、彼女は微笑んで頷いた。前例。つまり、失敗できないということだ。
彼女は自分に規則を課した。誰よりも早く来る。数字は前日のうちに頭に入れる。会議では必ず結論から話す。感情で判断しない。そして——弱音は吐かない。
半年で、支社の売上は前年比一〇八%になった。本社からの評価は高かった。ただ、フロアは静かだった。
「所長、こちらの見積もり、確認をお願いします」
若手の辻本がそう言ってくるとき、彼はいつも書類を両手で差し出し、二歩下がって待った。椎名は三十秒で目を通し、二か所に印をつけて返す。速い、正確、無駄がない。辻本は「ありがとうございます」と言って自席に戻る。それだけだった。
ある日、事務の門脇が湯呑みを持って所長室に入ってきた。この支社に二十年いる、椎名より十歳上の女性だ。
「所長、お茶です」
「ありがとうございます。置いておいてください」
「所長は、ここで何か困っていることはありますか」
「特には」
「そうですか」
門脇はしばらく立っていた。それから、独り言のように言った。
「みんな、所長のことをすごいと思ってますよ。ただ、すごい人には、相談しにくいんです」
椎名はペンを止めた。何か言い返そうとして、言葉が出てこなかった。門脇は湯呑みを置いて出ていった。
事が起きたのは、その二週間後だった。
主力取引先の外食チェーンから、納品したソースの表示が旧仕様のままだという連絡が入った。三千ケース。回収と再納品にかかる費用は、支社の年間利益が飛ぶ規模だった。
原因を辿ると、四か月前の仕様変更の通達が、営業側に正しく伝わっていなかった。通達を出したのは、椎名自身だった。要点だけをまとめた簡潔なメール。彼女らしい、無駄のない一通。ただ、変更の「適用日」の一行が抜けていた。
彼女は自席で三十分ほど動けなかった。頭の中で言い訳が組み上がっていく。確認を怠った営業にも責任はある。そもそも本社の仕様変更の連絡が遅い。どれも、間違ってはいない。どれも、言えば済む話だった。
翌朝の朝礼で、椎名はフロアの中央に立った。
「今回の件の原因は、私が出した通達の不備です。適用日を書き落としました。私のミスです」
誰も動かなかった。彼女は続けた。
「それから、正直に言います。ここからどうすれば取引先の信頼を戻せるのか、私にはわかりません。教えてください」
言ってから、心臓が鳴った。二十年、一度も口にしたことのない種類の言葉だった。
沈黙が数秒あった。それから、辻本が小さく手を挙げた。
「あの……実は、前から気になっていたことがあって」
彼はメモ帳をめくった。半年分の、細かい字。取引先の担当者が春の異動で代わったこと、その人が現場出身で、書類より現場を見たがること、回収の段取りをこちらから一緒に組めば、かえって評価が上がるかもしれないこと。
「言おうと思ってたんですけど、たいした話じゃないと思って」
「たいした話です」と椎名は言った。
その日のうちに、門脇が旧仕様の在庫記録を倉庫から掘り出してきた。若手が回収ルートを描いた。三日で対応案がまとまり、椎名は辻本を連れて先方の工場に出向いた。取引先が見ていたのは、回収そのものよりも、こちらが何日で動くかだった。半年後、その外食チェーンは新業態の全店舗に久米屋のソースを採用した。
年末、椎名は所長室のブラインドを外した。ガラス越しにフロアが見える。相変わらず彼女は七時十五分に来るけれど、コーヒーを二杯淹れて、一杯は誰かのために置くようになった。
完璧に見えていたころ、彼女のもとには何の情報も届いていなかった。
論考
完璧という名の情報遮断装置
「隙のない上司」は、しばしば理想像として語られる。判断が速く、感情に流されず、部下に不安を見せない。だがこの完成度には、見えにくい代償がついてくる。完璧に振る舞う人のもとには、未完成な情報が集まらなくなるのだ。組織が本当に必要としているのは、整った報告ではなく、まだ形になっていない懸念のほうである。**あなたのチームで、直近の一か月に「まだ整理できていない気がかり」を持ち込まれた回数は何回だったか。**
理由は単純だ。相談という行為は、相手に余白があるときに発生する。完璧な自己呈示は、相手に「この人は自分とは違う水準にいる」という信号を送る。すると人は、自分の懸念を持ち込む前に、それが持ち込むに値するかを自分で判定しはじめる。判定基準は相手の水準に合わせて引き上げられ、大半の材料は「たいした話ではない」として捨てられる。捨てられた材料の中に、初期段階の事故の芽が混ざっている。**メンバーが実際に相談を持ちかける相手は、組織図上の上司と一致しているか。**
とはいえ、弱さを見せれば信頼が集まる、という単純な話ではない。ここには明確な反証がある。能力への信頼がまだ確立していない段階のリーダーが不安を口にすれば、それは共有ではなく伝染になる。部下は情報を出すどころか、自分の身を守る側に回る。開示の効果は、開示する側の実績と、開示の仕方に強く依存する。実際、無防備な自己開示が最も歓迎されないのは、責任の所在が曖昧な組織においてである。**あなたの直近の開示は、聞き手の負担を減らしたか、それとも増やしたか。**
したがって、機能する開示には形式がある。第一に、事実に限定すること。感情の吐露ではなく、何が起きて自分がどこで間違えたかを述べる。第二に、責任を引き受けたうえで開示すること。「私のミスです」が先にあって初めて、その後の「わからない」が弱音ではなく要請になる。第三に、次の行動への依頼とセットにすること。「わからない」で終えれば不安が残るが、「ここまでは分かった、この先を教えてほしい」と続ければ、それは具体的な作業指示に変わる。この三つを満たす開示は、弱さの表明ではなく、情報の呼び水として働く。**直近の自己開示は、この三条件のうちいくつを満たしていたか。**
完璧主義は、多くの場合、能力の証明ではなく自己防衛として始まる。傷つかないための構えが、結果として情報を遮断する装置になる。皮肉なことに、その遮断が最も効くのは、判断を誤りやすい局面――前例のない役割、初めての責任範囲、周囲より自分が目立っている状況――である。守りが必要だと感じるときほど、守りが情報を減らす。挫折がしばしば人を有能にするのは、精神論ではなく、この装置が壊れて回線が開くからだ。**あなたが最も気を張っている場面は、最も情報が必要な場面と重なっていないか。**
### 実務への含意
- 完璧な報告だけが集まる状態を「順調」と読まない。未整理の懸念が上がってこないチームは、情報が枯れている可能性がある。
- 自らの誤りを開示するときは、事実・責任の引き受け・次の依頼の三点セットにする。「わからない」を単独で置かない。
- 前例のない役割に就いた直後こそ、意図的に不完全な状態を見せる場(未確定の論点を共有する場)を設計する。守りを固める時期と情報が最も必要な時期は重なる。
### 参考文献
- 『本当の勇気は「弱さ」を認めること』ブレネー・ブラウン(サンマーク出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4763133004?tag=digitaro0d-22)
- 『恐れのない組織――「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』エイミー・C・エドモンドソン(英治出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4862762883?tag=digitaro0d-22)
- 『insight(インサイト)――いまの自分を正しく知り、仕事と人生を劇的に変える自己認識の力』ターシャ・ユーリック(英治出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4862762700?tag=digitaro0d-22)
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