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ショートストーリー

縦書き

自分だけの物差し

営業部の月次会議が終わると、会議室には重い沈黙が残った。売上ランキングがスクリーンに映し出され、上位三名には拍手が送られる。一方で、下位に名前が並んだ者たちは、足早に席を立っていく。 入社三年目の川島翔太は、自分の名前が下から四番目に表示されているのを見て、小さくため息をついた。 「また、あの位置か」 翔太は決して仕事ができないわけではなかった。顧客との関係構築には定評があり、既存顧客からの信頼は厚い。しかし、新規開拓の数字という一つの指標で評価される営業部において、彼の強みは見えにくかった。 「川島、ちょっといいか」 声をかけてきたのは、営業推進室の室長・高橋美咲だった。五十代半ばの彼女は、かつて営業部でトップの成績を収めていたが、数年前から人材育成の部署に異動していた。 「君、今のランキング、どう思ってる?」 「正直、きついですね。毎月、自分の価値が数字で否定されているような気がして」 高橋は静かにうなずいた。 「私が現役だった頃もね、同じようなランキングがあった。でも、あの頃の私は一位を取ることしか考えていなかった。一位じゃなければ意味がないって」 「それで、トップを取り続けたんですよね」 「ええ。でもね、今思うと、あの頃の私は周りが見えていなかった。後輩の相談に乗る時間も惜しんで、自分の数字だけを追いかけていた」 高橋は窓の外を見つめながら続けた。 「ある日、私が育てた後輩が辞めていった。彼女、優秀だったのに、『この会社では自分の居場所がない』って。それで気づいたの。私がつくっていたのは、数字という一つの物差しでしか人を測れない組織だったって」 翔太は黙って聞いていた。 「川島君、君は今、どんな仕事に手応えを感じてる?」 思いがけない質問だった。翔太は少し考えてから答えた。 「先日、三年前から担当しているA社の部長から言われたんです。『川島さんがいるから、御社との取引を続けている』って。数字には現れませんけど、そういう瞬間は嬉しいです」 「それよ」高橋は真っ直ぐに翔太を見た。「それが君の価値。他人と比べて何番目かなんて、本当はどうでもいいの。大事なのは、昨日の自分より今日の自分が成長しているかどうか」 「でも、会社は数字で評価するじゃないですか」 「だから、私は営業推進室で評価制度の見直しを進めているの。顧客維持率、チームへの貢献度、後輩育成。いろんな軸で人を見る仕組みをね」 翔太は驚いた。そんな動きがあることを知らなかった。 「でも、すぐには変わらない。だから君には、今の制度の中でも、自分の物差しを持っていてほしいの。他人との比較じゃなくて、自分自身との対話。昨日の自分を超えられたか。それが、自分を誇れる唯一の根拠だと私は思う」 数日後、翔太はA社の定例訪問に向かった。いつもなら新規案件の提案を考えるところだが、今日は違った。担当部長が抱えている課題を、じっくり聞くことに集中した。 帰り道、翔太のスマートフォンが鳴った。A社の部長からだった。 「川島さん、さっきの話、うちの別部署にも紹介したいんだけど、いいかな」 新規開拓ではない。でも、信頼が広がっていく手応えがあった。 月末のランキングで、翔太の順位は変わらなかった。しかし、会議室を出る足取りは、先月とは違っていた。自分だけの物差しで測れば、確かに前に進んでいる。その実感が、静かに胸の中にあった。 高橋が会議室の隅から、そんな翔太の背中を見ていた。彼女もまた、自分の信じる仕事が、少しずつ形になっていくのを感じていた。

論考

縦書き

「自己ベストの更新」という評価軸――相対評価社会における個の尊重

### 序 組織における人材評価は、多くの場合、他者との比較によって行われる。売上ランキング、成績順位、昇進競争。こうした相対評価は、競争を促進し、組織全体のパフォーマンス向上に寄与するとされてきた。しかし、この評価手法が持つ構造的な問題が、近年注目を集めている。相対評価の下では、必然的に「上位」と「下位」が生まれ、評価される側の多くは、自分の価値を否定される経験を繰り返すことになる。果たして、この評価構造は組織の持続的な成長に寄与しているのだろうか。 **検証可能な問い:相対評価を主軸とする組織と絶対評価を取り入れた組織では、従業員のエンゲージメントにどのような差が生じるか。** ### 展開 自己肯定感と内発的動機づけの研究が示すのは、人は外部からの評価よりも、自分自身の成長実感によって動機づけられるという事実である。心理学者エドワード・デシの自己決定理論によれば、人間には「自律性」「有能感」「関係性」という三つの基本的欲求があり、これらが満たされることで内発的動機が生まれる。相対評価は、この「有能感」を一部の上位者にのみ与え、大多数からは奪い取る仕組みといえる。 「自己ベストの更新」という評価軸は、この問題への一つの解答である。他者との比較ではなく、過去の自分との比較によって成長を測る。この絶対評価的アプローチは、評価される全員に「有能感」を得る機会を提供する。昨日より今日、今日より明日、自分自身が前進しているという実感こそが、持続的な成長の源泉となる。 **検証可能な問い:「自己ベスト更新」を評価基準に取り入れた部署と従来型の相対評価部署で、離職率やイノベーション創出数に違いは見られるか。** ### 反証 ただし、絶対評価への移行には課題も存在する。第一に、客観性の担保が難しい。相対評価は比較という明確な基準があるのに対し、「自己ベスト」は主観的な要素を含み、評価者間でのばらつきが生じやすい。第二に、組織としての競争力低下の懸念がある。全員が「自分なりの成長」に満足してしまえば、市場競争に必要な緊張感が失われる可能性がある。第三に、成果主義との整合性の問題がある。多くの組織は最終的に「結果」を求められる以上、プロセスや成長のみで評価することへの抵抗は根強い。 **検証可能な問い:絶対評価を導入した組織において、競争力を維持するために必要な補完的仕組みは何か。** ### 再構成 これらの反論を踏まえると、相対評価と絶対評価の二項対立ではなく、両者の統合が求められる。具体的には、組織目標への貢献度という相対的な軸と、個人の成長度という絶対的な軸を併用する「多軸評価」の導入である。重要なのは、評価軸の多様化そのものではなく、一人ひとりが「自分を誇れる根拠」を持てる仕組みをつくることにある。 新規開拓が得意な者、既存顧客との関係構築に長けた者、後輩育成に貢献する者。それぞれの強みが「価値」として認められる評価制度は、組織の多様性を活かし、イノベーションを促進する。自分の物差しで自分を測れるとき、人は初めて本当の意味で成長に向かう動機を得る。 **検証可能な問い:複数の評価軸を持つ組織において、従業員は自身の「強み」をどの程度認識し、発揮しているか。** ### 示唆 「自己ベストの更新」という概念は、評価される側の心理的安全性を高める。他者との比較から解放されることで、失敗を恐れずに挑戦する姿勢が生まれる。これは、不確実性の高い環境において組織が適応力を持つための必要条件でもある。 誇りとは、他者からの作用もあるが、結局は自己評価である。有限な存在である自分自身が、何をもって成り立つのか。自分として、自分のベストを尽くそうとしたのだという実感以外、誇りをもって生きる根拠はない。この認識は、評価制度の設計者にも、評価される側にも、共通して必要な視座といえる。 **検証可能な問い:心理的安全性が高い組織において、従業員の挑戦行動はどの程度増加するか。** --- ### 実務への含意 - **評価制度の多軸化**:売上や成果だけでなく、顧客維持率、チーム貢献度、後輩育成など複数の軸を設定し、多様な強みが評価される仕組みを構築する - **フィードバックの質的転換**:「順位」を伝えるのではなく、「過去からの成長」を言語化して伝えることで、被評価者の内発的動機を高める - **自己評価の機会提供**:定期的に「自己ベスト更新」を振り返る場を設け、従業員が自分自身の成長を実感できる仕組みをつくる --- ### 参考文献 - 『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478025819?tag=digitaro0d-22) - 『モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか』ダニエル・ピンク、大前研一訳(講談社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4062816199?tag=digitaro0d-22) - 『人を伸ばす力―内発と自律のすすめ』エドワード・L・デシ、リチャード・フラスト、桜井茂男訳(新曜社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4788506793?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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