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ショートストーリー

縦書き

正しい側の人

営業企画部の小野寺洋介は、自分が正しいと信じていた。 社内の人事評価制度が改定され、マネジメント経験よりもプロジェクト成果を重視する方針に切り替わった。結果、現場でプロジェクトを回してきた若手や中途入社の社員が次々と昇格し、十五年間コツコツと積み上げてきた小野寺は据え置きのままだった。 「これは不公平だ」 同期の宮田も、後輩の藤原も、同じ思いだった。三人は昼休みに集まるようになった。社員食堂の隅の席が、いつしか「あの席」と呼ばれるようになった。 「結局、上は派手な数字が好きなんだよ。地道にチームを支えてきた人間は見えないんだ」 宮田が言うと、藤原がうなずく。小野寺はスマートフォンで社内チャットのログを見せた。 「ほら、この人事部の山下って人、前の会社でも評価制度の改革をやって、古参社員が大量に辞めてる。わざとやってるんだよ」 三人のあいだで、人事部の山下が「諸悪の根源」になった。山下が関わったプロジェクトの失敗事例を探し、社内の匿名掲示板に書き込んだ。反応は予想以上だった。「自分も同じことを感じていた」「やはり新制度はおかしい」という書き込みが続いた。 小野寺は手応えを感じた。自分たちは間違っていない。声を上げなければ、この組織はますます歪んでいく。 ある日、部長の三浦に呼ばれた。 「小野寺、匿名掲示板のこと、知ってるな」 否定しなかった。むしろ、これは好機だと思った。 「三浦さんも感じてるでしょう。新制度になってから、チームの一体感がなくなった。地道に組織を支えてきた人間が報われない仕組みは、長い目で見たら会社を壊しますよ」 三浦は黙って聞いていた。それから言った。 「お前の言ってることには、一理ある。評価制度に問題がないとは思っていない。でも、匿名で個人を攻撃するやり方は違う」 「じゃあ、どうすればいいんですか。正式に意見を出しても、人事部は聞く耳を持たない。自分たちの改革が正しいと思い込んでる」 「お前もだろう」 三浦の一言に、小野寺は口をつぐんだ。 「自分が正しいと思い込んでるのは、お前も同じだ。違うか」 その夜、小野寺は一人で残業しながら考えた。三浦の言葉が引っかかっていた。だが、すぐに打ち消した。三浦は管理職だ。上の側の人間だ。自分たちの痛みはわからない。 翌週、匿名掲示板の書き込みがエスカレートした。山下個人への中傷が増え、家族構成まで晒されそうになった。小野寺は止めようとしたが、藤原が言った。 「小野寺さんが最初に火をつけたんじゃないですか。今さら引けないでしょう」 その言葉に、小野寺は気づいた。自分が正しいと信じて始めたことが、もう自分の手を離れている。怒りは自分たちのものではなくなり、掲示板の中で勝手に育っていた。 人事部から全社メールが届いた。評価制度について意見交換の場を設けるという内容だった。ただし条件があった。「匿名ではなく、実名で、具体的な改善提案を持ち寄ること」。 宮田は「罠だ」と言った。藤原は「出たら報復される」と言った。 小野寺は、二人を見て、少し間を置いてから言った。 「出るよ。匿名で人を攻撃するのと、自分の名前で意見を言うのは、違う。俺はずっと正しい側にいると思ってた。でも、正しいと思い込んでるだけで何もしてなかった」 意見交換会の日、小野寺は実名で出席した。宮田も藤原も来なかった。 小野寺は用意してきた紙を広げた。評価制度の問題点を三つ、具体的なデータとともにまとめていた。人事部の山下は正面に座っていた。 「小野寺さん、ありがとうございます。こういう声を、ずっと待っていました」 山下の言葉が本心かどうかはわからなかった。だが、少なくとも、匿名の掲示板に書き込んでいたときよりも、自分の声が自分のものだという感覚があった。 会議室を出ると、廊下で三浦とすれ違った。三浦は何も言わず、小さくうなずいた。 正しい側にいると信じることと、正しいことをすることは、同じではなかった。

論考

縦書き

論破しても人は変わらない――被害者意識の自己強化と組織の分断

**序** 組織の中で不満を抱えた人間に対して、データや論理で反論すれば問題は解決するだろうか。多くの場合、答えは否である。不満の根底にあるのが「自分は不当に扱われている」という被害者意識である場合、論理的な反証はむしろ逆効果をもたらす。批判されるほど「やはり自分は抑圧されている」という確信が深まり、怒りが自己強化されていく。この構造を理解しなければ、組織の分断は止められない。 *問い:組織内の不満に対して論理的反論を行った場合と、傾聴を中心に対応した場合で、その後の従業員エンゲージメントにどのような差が生じるか。* **展開** 脳科学の知見によれば、人が「許せない」と感じるとき、脳内では報酬系が活性化している。つまり、怒りや正義感を発動させること自体が快感をもたらす。この「正義中毒」とも呼ばれる状態に陥ると、人は攻撃対象を探し続けるようになる。組織においてこの現象が起きると、特定の部署や個人が「諸悪の根源」に仕立て上げられ、匿名の批判が増殖していく。注目すべきは、こうした怒りの対象がしばしば抽象的であるという点だ。「経営陣」「人事部」「あの世代」といった顔の見えない集団に向けられた怒りは、具体的な個人への怒りよりも制御が難しい。実体がないからこそ、際限なく膨張する。 *問い:匿名で批判を行う組織と、実名でフィードバックを行う組織では、問題解決の速度と質にどの程度の差が生じるか。* **反証** ただし、被害者意識のすべてが根拠のない思い込みとは限らない。評価制度の設計に実際の不備がある場合、現場の声が届かない構造が存在する場合、不満の中には合理的な核が含まれている。被害者意識を一律に「非合理的」と片付けることは、問題の先送りに過ぎない。重要なのは、感情と事実を分離して扱う技術である。感情を否定せずに受け止めたうえで、具体的な問題を特定し、検証可能な形で議論の俎上に載せること。この手順を省略して「データではこうだ」と返すだけでは、相手の感情は行き場を失い、地下に潜る。 *問い:従業員の不満を「感情」と「事実」に分離して対応するプロセスを導入した組織では、離職率や内部告発件数にどのような変化が見られるか。* **再構成** 陰謀論的な思考が組織に根付く背景には、複雑な問題に明快な物語を与えたいという人間の根源的な欲求がある。「すべてはあの人のせいだ」という説明は、「複数の構造的要因が絡み合っている」という説明より、はるかにわかりやすく、感情的な納得感も高い。統計的事実より物語のほうが伝播力を持つのは、組織の内部でも同じである。だからこそ、対抗するには論理だけでは足りない。必要なのは「別の物語」である。不満を抱える人間が自分の名前で意見を述べ、それが実際に検討される経験をすること。この「自分の声が届いた」という物語が、被害者意識の物語を置き換えうる唯一の力になる。 *問い:組織内で「意見が反映された」という経験を持つ従業員と持たない従業員で、組織への信頼度にどの程度の差があるか。* **示唆** 人を変えるのは論破ではなく、自分の名前で語り、その声が受け止められたという経験である。匿名の怒りが匿名のまま増殖する組織は、静かに壊れていく。分断を食い止めるために必要なのは、正しさの証明ではなく、対話の場の設計である。 **実務への含意** - **実名フィードバックの制度化**:匿名アンケートに加え、実名で改善提案を行い、経営が回答義務を負う仕組みを設けること - **感情と事実の分離プロセス**:不満を受け付ける際、まず感情を受容したうえで、具体的事実の特定と検証に移行する対話フレームワークを導入すること - **「反映の可視化」**:従業員の意見が制度や運用にどう反映されたかを定期的に公開し、「声が届いている」という実感を組織全体で共有すること ### 参考文献 - 『人は、なぜ他人を許せないのか?』中野信子(アスコム)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4776210266?tag=digitaro0d-22) - 『人を動かす 文庫版』D・カーネギー(創元社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/442210098X?tag=digitaro0d-22) - 『他者と働く』宇田川元一(NewsPicksパブリッシング)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4910063013?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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