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ショートストーリー
失点の記憶
営業部の中堅社員、川島誠一は、三年前の記憶から逃れられずにいた。
当時、彼は新規事業チームのリーダーとして、会社の命運を賭けた大型プレゼンに臨んでいた。相手は業界最大手の製造会社。受注できれば、会社の売上は一気に三割増となる案件だった。
プレゼン当日、川島は完璧な準備をしていたはずだった。しかし、質疑応答で先方の技術部長から想定外の質問が飛んだ瞬間、彼の頭は真っ白になった。数秒の沈黙。その間に、同席していた競合他社の担当者が流暢に答えを述べた。
「川島さんのチームには、もう少し経験を積んでいただいてから」
先方の社長はそう言って、契約は他社に流れた。
川島はその夜、居酒屋で一人酒を飲んだ。翌日から、社内の空気が変わった。直接何か言われるわけではない。だが、廊下ですれ違う同僚の目が、どこか冷たく感じられた。
数週間後、匿名の社内チャットに書き込みがあった。「あの案件、川島さんが固まらなければ取れてたのに」。上司は何も言わなかったが、川島は新規事業チームから外され、既存顧客の管理業務に回された。
それから三年。川島は淡々と仕事をこなしていた。与えられた業務は確実にやる。しかし、新しい挑戦には手を出さない。会議で意見を求められても、当たり障りのないことしか言わなくなった。
「俺のせいで会社は大きな機会を失った」
その思いは、時間が経っても薄れなかった。
ある日、川島は取引先との会食で、思いがけない人物と再会した。三年前のプレゼンで契約を勝ち取った競合他社の担当者、村井健太だった。
「川島さん、お久しぶりです」
村井は気さくに声をかけてきた。川島は身構えた。勝者が敗者に何を言うのか。
しかし村井の言葉は予想外だった。
「あの案件、実は僕らも苦労したんですよ。先方の要求が厳しくて、結局二年で契約打ち切りになりました」
川島は驚いた。あの案件を取れなかったことが、自分の人生最大の失敗だと思っていた。しかし現実は、取った側も幸福ではなかったのだ。
「川島さんの提案、技術部長は実はすごく評価してたんです。あの沈黙の後、すぐに立て直して答えようとしてましたよね。あれ、僕には真似できなかった」
村井はそう言って笑った。
その夜、川島は久しぶりに妻に三年前の話をした。妻は黙って聞いていた。
「あなた、ずっと一人で抱えてたのね」
妻の言葉に、川島は初めて涙が出た。
翌週、川島は思い切って、かつての上司である営業本部長の木村を訪ねた。木村は定年を前に、関連会社の顧問として働いていた。
「川島、来たか」
木村は穏やかに迎えた。川島は三年間、心の中で反芻してきたことを話した。あの失敗のこと。それ以来、新しいことに挑戦できなくなったこと。
木村は静かに聞いていた。そして、こう言った。
「お前、あれを失敗だと思ってるのか」
「違うんですか」
「あの案件、実は俺が無理に押し込んだんだ。お前たちの実力からすれば、時期尚早だった。固まったのはお前だが、あの場にお前を送り込んだのは俺だ」
木村は続けた。
「だから俺は、お前に声をかけられなかった。本当は俺が謝るべきだったんだ」
川島は言葉を失った。三年間、自分だけを責め続けていた。しかし、責任は自分一人のものではなかった。
「川島、お前は三年間、自分を罰し続けてきた。もう十分だろう」
木村の言葉は、鎖を解くように川島の心に沁みた。
数ヶ月後、川島は社内の若手向け研修で講師を務めることになった。テーマは「失敗との向き合い方」。彼は自分の経験を、初めて人前で語った。
「私は三年前、大きな失敗をしました」
若手社員たちは真剣に聞いていた。川島は、失敗そのものではなく、失敗後の自分の在り方について話した。一人で抱え込んだこと。周囲に助けを求められなかったこと。そして、時間を経て気づいたこと。
「失敗は、それ単体では意味を持ちません。その後、どう生きるかで、意味が変わります」
研修が終わった後、一人の若手が川島に声をかけてきた。
「川島さん、僕も先月、大きなミスをして落ち込んでいました。でも今日の話を聞いて、少し前を向けそうです」
川島は、三年前の自分を思い出した。あの時、誰かがこう言ってくれていたら、と。
だからこそ今、自分がその役割を果たせる。
帰り道、川島は空を見上げた。あの失敗がなければ、この景色を見ることもなかっただろう。
失点の記憶は消えない。しかし、その記憶が照らす道があることを、川島はようやく知った。
論考
失敗を超える力──挫折からの回復と他者の役割
### 序
人は失敗を避けようとする。しかし、長いキャリアの中で一度も失敗しない人間はいない。問題は失敗そのものではなく、失敗した後にどう振る舞うかである。ある考え方によれば、失敗からの回復力(レジリエンス)は、個人の資質だけでなく、周囲の環境と他者との関係性によって大きく左右される。本稿では、失敗からの回復における他者の役割について考察し、組織や個人が取るべき姿勢を検討する。
**検証可能な問い:** 失敗後の回復速度は、周囲からのサポートの有無によってどの程度変化するか?
### 展開
失敗が人に与える影響は、失敗の規模だけでは測れない。重要なのは、その失敗が本人のアイデンティティとどれほど結びついているかである。仕事上の失敗が「自分は無能だ」という自己認識につながると、回復は著しく遅れる。一方、「あの状況では誰でも同じ結果になりえた」という認識を持てれば、失敗は一時的な出来事として処理される。
この認識の違いを生むのが、他者からのフィードバックである。失敗直後に非難されると、人は自己防衛に入り、失敗から学ぶ余裕を失う。逆に、失敗を責めずに原因を一緒に分析してくれる他者がいると、失敗は学習の機会に変わる。組織における心理的安全性の重要性が指摘されるのは、このためである。
**検証可能な問い:** 失敗に対する組織の反応パターンと、社員の挑戦行動の頻度に相関はあるか?
### 反証
ただし、他者のサポートがあれば必ず回復できるわけではない。失敗の当事者本人が、サポートを受け入れる準備ができていなければ、善意の言葉も逆効果になりうる。また、過度な慰めは、失敗の重大さを矮小化し、本人が向き合うべき課題を曖昧にする危険がある。
さらに、社会的なサポートを受けられる人とそうでない人の間には、回復の機会に格差が生じる。失敗後に孤立してしまう人は、負のスパイラルに陥りやすい。失敗からの回復を個人の努力や心がけだけに帰するのは、構造的な問題を見えなくする。
**検証可能な問い:** 失敗後のサポート体制の有無によって、離職率にどのような差が生じるか?
### 再構成
失敗からの回復を促進するために必要なのは、三つの要素である。第一に、失敗を責めない文化。これは甘やかしではなく、失敗の原因を冷静に分析できる環境のことである。第二に、時間をかけて意味を再構築する機会。失敗直後には見えなかった教訓が、時間を経て見えてくることがある。第三に、失敗を経験した人が後進に経験を伝える仕組み。失敗の経験は、適切に共有されれば組織の財産になる。
これらの要素は、個人の努力だけでは整えられない。組織として意識的に設計する必要がある。
**検証可能な問い:** 失敗経験の共有を制度化している組織とそうでない組織で、イノベーション創出数に差はあるか?
### 示唆
失敗は終わりではなく、通過点である。しかし、その通過点を乗り越えられるかどうかは、本人の意志だけでなく、周囲の環境に大きく依存する。不確実性が高まる現代において、失敗のリスクを完全に排除することは不可能である。であれば、失敗した後にいかに立ち直るかを、個人と組織の両面から設計することが求められる。
失敗を恐れて挑戦しない組織は、やがて停滞する。失敗を許容し、そこから学ぶ文化を持つ組織だけが、変化に適応し続けることができる。
**検証可能な問い:** 失敗許容度と組織の長期的な成長率に相関はあるか?
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### 実務への含意
- 失敗した社員に対しては、非難ではなく原因分析を優先し、心理的安全性を確保する
- 失敗経験を持つ社員が後進に学びを伝える場を定期的に設け、組織知として蓄積する
- 個人の回復力だけに頼らず、サポート体制を組織として設計・運用する
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### 参考文献
- 『失敗の科学』マシュー・サイド(ディスカヴァー・トゥエンティワン)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4799320238?tag=digitaro0d-22)
- 『世界のエリートがIQ・学歴よりも重視!「レジリエンス」の鍛え方』久世浩司(実業之日本社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/440845494X?tag=digitaro0d-22)
- 『心理的安全性のつくりかた』石井遼介(日本能率協会マネジメントセンター)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4820728245?tag=digitaro0d-22)
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