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ショートストーリー
我慢料の明細書
真壁遥の机の引き出しには、封を切っていない封筒が一通入っていた。差出人は潮見醸造。社員四十人ほどの、海沿いの町の醤油蔵だ。
日邦フーズの経営企画部に配属されて六年。遥の仕事は、全国の事業部から集まる数字を束ね、役員会向けの資料に整えることだった。資料はいつも「よくまとまっている」と褒められた。けれど完成したファイルを閉じるたびに、胸のどこかが少しずつ冷えていく感覚があった。
潮見醸造とは、三年前に共同開発の窓口を務めたときに知り合った。社長の潮見は六十を過ぎた小柄な男で、打ち合わせのたびに試作のたれを小皿に並べ、「どれが一番うまいか、正直に言ってくれ」と遥に尋ねた。遥が正直に答えると、潮見はその場で配合を変えた。会議室の空気が、日邦フーズとはまるで違っていた。
先月、その潮見から「新商品の企画をまるごと任せたい。来てくれないか」と言われた。年収は二割ほど下がる。
遥が迷っていることを、なぜか部長の古賀は知っていた。
「真壁、少し時間いいか」
夕方の小会議室で、古賀は湯呑みを両手で包んだまま切り出した。
「潮見さんのところ、行くつもりか」
「まだ決めていません」
「なら言っておく。やめておけ。うちは創業八十年、取引先は全国に三千社ある。ご両親だって、君が日邦に入ったときは喜んだだろう」
遥は黙ってうなずいた。母は親戚が集まるたびに、娘の勤め先の名前を口にした。
「小さい会社は、一つ商品が外れたら終わりだ。若いうちは面白さに目が行く。でもな、仕事ってのは多少つまらなくても続けるものなんだ。給料はその分の対価だよ」
「我慢の対価、ということですか」
古賀は一瞬だけ目を細め、「言い方はともかく、そういうことだ」と答えた。
「部長は、この会社が好きですか」
遥が聞くと、古賀は湯呑みを置いた。
「好き嫌いで会社を選ぶのは子どもだ。私は家族を食べさせるために選んだ。それを恥じたことはない」
「恥じる必要なんてないと思います。ただ――」
遥は言葉を探した。
「私は毎月、この会社の数字を一番近くで見ています。部長が安泰だとおっしゃる主力の三事業は、この十年で売上が二割減っています。一方で、うちに原料を納めている中小のメーカーは、半分以上が売上を伸ばしている。潮見醸造は七年連続の増収です」
「数字は知っている」古賀の声が少し硬くなった。「だが、大きい船は沈みにくい」
「沈みにくいことと、前に進んでいることは、別だと思うんです」
沈黙が落ちた。廊下の向こうで、コピー機が紙を吐き出す音だけが続いていた。
翌週、古賀は遥を呼び、一冊のファイルを差し出した。来期の中期経営計画の草案だった。
「役員会に出す前に、君の目で見てくれ。引き止めの材料になると思ってな」
ページをめくると、どの施策にも「既存事業の効率化」「コスト削減」という言葉が並んでいた。新しい商品を生む計画は、最後のページに一行だけあった。担当部署は「未定」。
遥はファイルを閉じ、古賀の顔を見た。
「部長。これを私に見せたら逆効果だと、わかっていましたよね」
古賀はしばらく窓の外を眺めてから、苦笑した。
「三十年前、私にも誘われた会社があった。親に反対されて断った。その会社は今、うちの一番の競合だよ」
「後悔していますか」
「していない、と言い続けてきた」
古賀は草案を引き取り、表紙を指先で軽く叩いた。
「君がいなくなると資料の出来は落ちる。困るのは本当だ。だが、つまらなそうな顔で良い資料を作られるより、どこかで面白がって働いてもらったほうが、この業界全体のためにはなる気がする」
その夜、遥は引き出しから封筒を取り出し、ようやく封を切った。便箋には潮見の癖のある字で、一行だけ書かれていた。
「正直に言ってくれ。どれが一番うまいか」
同封されていたのは、ラベルのない小瓶が三本だった。
給料は、耐えた時間の値段にもなれば、面白がった時間の値段にもなる。どちらの明細を受け取るかを決めるのは、会社の名前ではなかった。
論考
「安定した会社」という思い込み――好き嫌いで職場を選ぶことの合理性
## 序――職場選びの基準に「自分」はいるか
就職や転職で重視されやすい基準は、「規模が大きいか」「名前が知られているか」「人気ランキングの上位か」「将来にわたって生活が保障されそうか」といったものだ。これらはいずれも外部からの評価であり、本人の関心や適性はほとんど含まれていない。職場への愛着を尋ねる国際比較調査で、日本の働き手の「会社が好き」という回答が低い水準にとどまりがちなのは、この選び方と無関係ではないだろう。世間の目で選んだ職場は、合わなかったときにも世間の目によって辞めにくい。こうして「給料は我慢の対価」という感覚が固定化していく。
**問い:あなたが今の職場を選んだ理由のうち、自分の関心に由来するものはいくつあるか。**
## 展開――「好き」は生産性であり、「大きさ」は安全ではない
好きな作業なら何時間でも続けられるが、興味の持てない作業は短時間でも消耗する。この差を仕事に置き換えれば、同じ時間で生み出す成果の差、つまり生産性の差になる。好みに合った職場を選ぶことは、わがままではなく、個人と経済全体の稼ぐ力を高める行為と捉えられる。
また、「大企業に入れば安泰」という前提も検証に値する。長期の株式市場を振り返ると、景気低迷期と呼ばれる期間でさえ上場企業の多くは成長しており、その担い手の大半は中堅・中小企業だった。一方で、日本を代表する大型株で構成される指数が、同じ期間に下落していた局面もある。規模は沈みにくさを示しても、前進している証拠にはならない。
**問い:自分の会社や志望先の過去十年の売上・利益・株価の推移を、実際に確認したことがあるか。**
## 反証――「好き」で選ぶことの限界
もちろん、好みで選べばうまくいくわけではない。中小企業は一つの事業の失敗が経営を直撃しやすく、教育制度や福利厚生が手薄な場合もある。経験の浅い段階では、「好き」「嫌い」の判断そのものが未熟で、続けることで初めて面白さが見える仕事も存在する。一定期間の継続が熟達を生むという考え方には、確かに一理ある。さらに、家族の事情や収入の減少など、移動にかかるコストは人によって大きく異なる。
**問い:いま感じている「合わない」の原因は、仕事の中身か、人間関係か、それとも未熟さによる一時的なものか、切り分けられているか。**
## 再構成――問題は「二択」ではなく「根拠の置き場所」
論点は「大企業か中小企業か」「我慢か好きか」という二択ではない。本質的な問題は、選択の根拠を知名度や他人の評価に預けてしまうことにある。自分の関心という主観的な軸と、事業の成長性という客観的な数字。この二つを自分の手で組み合わせて判断すれば、どちらか一方に偏った選択より失敗しにくくなる。移動が当たり前の環境では、人は職場を嫌いになる前に、より合う場所へ移る。結果として、残る人の愛着は高くなる。
**問い:「今の会社を辞めない理由」を、世間体を使わずに自分の言葉で説明できるか。**
## 示唆――「いつでも辞められるのに残る」組織へ
給料を我慢料と捉えるか、価値を提供した対価と捉えるかで、働く時間の意味は変わる。これは個人だけの課題ではない。組織の側も、社員を囲い込むのではなく、「いつでも移れるのに、ここにいたい」と思われる状態を目指す必要がある。社員の移動を恐れる組織ほど、実は成長の機会を自ら閉ざしているのかもしれない。
**問い:もし部下全員が明日から自由に転職できるとしたら、あなたのチームには何人が残るだろうか。**
### 実務への含意
- 職場を選ぶ・見直す際は、知名度や規模ではなく「自分の関心」と「事業の成長性データ」の二軸で評価する
- 「合わない」と感じたら、原因を仕事内容・人間関係・自分の習熟度に分けて検討し、我慢すべきか移るべきかを判断する
- 管理職は、部下が「辞めない理由」ではなく「ここで働きたい理由」を持てているかを定期的に確かめる
### 参考文献
- 『イノベーションのジレンマ 増補改訂版』クレイトン・クリステンセン(翔泳社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4798100234?tag=digitaro0d-22)
- 『このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法』北野唯我(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478105553?tag=digitaro0d-22)
- 『ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉』リンダ・グラットン(プレジデント社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4833420163?tag=digitaro0d-22)
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