ショートストーリー
二本の矢印
論考
顧客を選ぶ権利は、誰が持っているのか
会社と、そこで働く人と、顧客。この三者が並んだとき、働く人の忠誠心は必ず二方向に引き裂かれる。目の前の顧客の課題を解けば喜ばれるが、それが今月の数字に結びつくとは限らない。会社の指示どおりに数字を作れば評価されるが、顧客の信頼は少しずつ削れていく。経済学ではこれをエージェンシー問題と呼ぶ。依頼人(会社)と代理人(現場)の利害が完全には一致しない、という構造上の宿命である。あなたの職場では、現場が「会社と顧客のどちらを優先するか」を判断する基準が、文書として存在しているだろうか。
この矛盾から解放されている人たちがいる。自営業者や個人事業主だ。彼らは会社であり同時に現場でもあるため、矢印が一本しかない。顧客に誠実であることが、そのまま経営方針になる。だから彼らは、無礼な相手や不当な値下げ圧力を、罪悪感なく断ることができる。断ることが売上を守る行為だと、自分の帳簿で確認できるからだ。組織の中で「この顧客はお断りします」と言った人間は、あなたの会社では守られるだろうか、それとも始末書を書かされるだろうか。
とはいえ、「顧客を選べ」を組織にそのまま持ち込むのは危うい。選別の権限を現場に丸投げすれば、基準は人によってばらつき、機嫌や相性で客が切られる余地が生まれる。企業には規模の経済もあり、稼働率を落とすことのコストは個人より重い。「気に入らない客は切っていい」は、個人事業主が自分のリスクで引き受けているから成立する規律であって、他人の資本の上では単なる恣意になりかねない。顧客を断った判断が正しかったかどうかを、事後に検証できる仕組みを持っているだろうか。
だとすれば、論点は「顧客を選ぶか否か」ではない。「選別の基準を誰が持ち、どこに置くか」である。悪い組織は基準を持たず、判断も責任も現場個人の胸先三寸に押しつける。よい組織は基準を会社側に置き、線を越えた相手には会社の名前で断る。前者では現場が消耗し、優秀な人から辞めていく。後者では現場が安心して顧客に寄り添える。そして、過去に前者のやり方で売上が立ってしまった組織ほど、この転換が遅れる。現場の忍耐で埋めた数字は、戦略の不在を隠す包帯として、驚くほどよく機能してしまうからだ。過去三年の売上のうち、仕組みで得た分と、誰かの我慢で得た分を、切り分けて説明できるだろうか。
最後は測定の問題に行き着く。管理表に「今月いくら売ったか」しか欄がなければ、組織はそれだけを最大化する。そこに再来店率や顧客あたりの生涯価値、離職率といった欄が並んだ瞬間、「安いほうを勧めて信頼を残す」という行為が、初めて数字として姿を現す。見えないものは評価されず、評価されないものは現場の善意としてしか存在できない。善意は、続かない。あなたの評価指標に、来月ではなく三年後に効いてくる項目はいくつあるだろうか。
実務への含意
- 「どの顧客を断るか」の基準を明文化し、断る判断は会社の名前で行う。現場個人の勇気に依存させない。
- 短期売上と並べて、再来店率・顧客あたり生涯価値・離職率を同じ管理表に載せる。載っていない価値は、組織には存在しないのと同じ。
- 過去の成功パターンを棚卸しし、「仕組みで勝った部分」と「誰かの我慢で埋めた部分」を分離する。後者は再現できないので、戦略の資産として数えない。
参考文献
- 『真実の瞬間 SASのサービス戦略はなぜ成功したか』ヤン・カールソン(ダイヤモンド社)Amazon
- 『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』戸部良一ほか(中公文庫)Amazon
- 『ストーリーとしての競争戦略 優れた戦略の条件』楠木建(東洋経済新報社)Amazon
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