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ショートストーリー

縦書き

二本の矢印

宮下真澄がサンライズ電機・城南店の白物家電売り場に立って、四年目の春だった。 その日、洗濯機のコーナーで足を止めた老夫婦は、しばらく最新型の前で顔を見合わせていた。二十万円を超える、乾燥機能付きの一台だった。 「お二人でお住まいですか」 「ええ。娘は遠くにいるもんで」 「洗濯は、週に何回くらいですか」 「二回か、三回か」 宮下は少し考えてから、三列離れた棚を指した。前年モデルの、乾燥機能のない縦型。七万円台。 「こちらで十分だと思います。乾燥は、干す場所があるならほとんど使わなくなります。差額で、あと十年ぶんの電気代が出ます」 老夫婦は驚いた顔をして、それから笑った。その日の宮下の売上は、店が期待した額の三分の一だった。 「宮下」 閉店後、店長の藤堂に呼ばれた。手には実績表がある。 「延長保証、また付けてないな」 「必要ないと判断しました」 「判断するのはお前じゃない。本部だ」 藤堂は悪い人間ではない。ただ、彼の見ている表には、客の名前が一つも載っていない。載っているのは点数と、率と、前年比だけだ。 「宮下。俺たちは慈善事業をしてるんじゃない。客に喜ばれて店が潰れたら、その客はどこで洗濯機を買うんだ」 正論だと思った。だから宮下は言い返せなかった。 翌週、宮下は別の意味で藤堂とぶつかった。 月に二度は来る中年の男が、冷蔵庫の値札を指して騒いでいた。通販の最安値を見せ、それより一万下げろ、下げないなら店の対応が悪いと本部に電話する、と言う。前の月も、その前の月も、同じことをして、結局買わずに帰っている。 「申し訳ありません。この価格が当店の精一杯です」 宮下は頭を下げ、そして顔を上げた。 「それと、大きなお声はほかのお客様のご迷惑になりますので、おやめいただけますか」 男は捨て台詞を吐いて出ていった。 事務所で、藤堂の顔は赤かった。 「お前、客を追い返したのか」 「はい」 「客は神様だろうが」 「神様は、うちの棚を三十分占領して、隣のお客様を追い返したりしません」 藤堂は何か言いかけて、やめた。 その夜、帰り道で宮下は少しだけ後悔した。藤堂の言う「神様」の正体は、たぶん本部の集計表だ。あの表の上では、騒いだ男も、洗濯機を買った老夫婦も、同じ「来店客一名」でしかない。区別しないと決めた瞬間から、区別する手間は全部、売り場に立つ人間の背中に載る。 宮下には、誰にも見せていないノートがあった。接客した客の名前、家族構成、買った物、次に困りそうなこと。四年で三百人分。店のシステムには載らない情報だ。誰に頼まれたわけでもない。ただ、次に来たときに「あのときの」と言われて思い出せない自分が、嫌だっただけだった。 秋、そのノートが役に立つ日が来た。 本部が、城南店を閉店候補に入れると通達してきたのだ。売上は近隣店より低い。藤堂は反論の材料を探し、見つけられずにいた。 宮下はノートを持って事務所に入った。 「うちの店の再来店率、出せますか」 「再来店?」 「一度買ったお客様が、二年以内にもう一度来た割合です。うちは、たぶん高いです」 調べさせると、城南店の数字は近隣三店のどれよりも高かった。しかも、二度目の客の単価は、一度目より二割上がっていた。安い物を勧められた客ほど、次は高い物を買いに戻ってきていた。 藤堂はその表を持って本部に行き、閉店の話は流れた。 年の暮れ、藤堂は宮下を呼んで、少し言いにくそうにこう言った。 「お前のやり方を全店でやれ、とは言わん。俺にはまだ怖い。ただ、白物の棚だけは、お前の判断でいい。保証も、値引きも、断る客も、お前が決めろ」 宮下は礼を言って、事務所を出た。 自分が誰の方を向いて働くかは、もう上司に決めてもらわなくていい。ただ、それを許してくれる場所を選ぶ自由だけは、まだ手放していない――そう思いながら、宮下は消灯前の売り場をもう一度、端から端まで歩いた。

論考

縦書き

顧客を選ぶ権利は、誰が持っているのか

会社と、そこで働く人と、顧客。この三者が並んだとき、働く人の忠誠心は必ず二方向に引き裂かれる。目の前の顧客の課題を解けば喜ばれるが、それが今月の数字に結びつくとは限らない。会社の指示どおりに数字を作れば評価されるが、顧客の信頼は少しずつ削れていく。経済学ではこれをエージェンシー問題と呼ぶ。依頼人(会社)と代理人(現場)の利害が完全には一致しない、という構造上の宿命である。**あなたの職場では、現場が「会社と顧客のどちらを優先するか」を判断する基準が、文書として存在しているだろうか。** この矛盾から解放されている人たちがいる。自営業者や個人事業主だ。彼らは会社であり同時に現場でもあるため、矢印が一本しかない。顧客に誠実であることが、そのまま経営方針になる。だから彼らは、無礼な相手や不当な値下げ圧力を、罪悪感なく断ることができる。断ることが売上を守る行為だと、自分の帳簿で確認できるからだ。**組織の中で「この顧客はお断りします」と言った人間は、あなたの会社では守られるだろうか、それとも始末書を書かされるだろうか。** とはいえ、「顧客を選べ」を組織にそのまま持ち込むのは危うい。選別の権限を現場に丸投げすれば、基準は人によってばらつき、機嫌や相性で客が切られる余地が生まれる。企業には規模の経済もあり、稼働率を落とすことのコストは個人より重い。「気に入らない客は切っていい」は、個人事業主が自分のリスクで引き受けているから成立する規律であって、他人の資本の上では単なる恣意になりかねない。**顧客を断った判断が正しかったかどうかを、事後に検証できる仕組みを持っているだろうか。** だとすれば、論点は「顧客を選ぶか否か」ではない。「選別の基準を誰が持ち、どこに置くか」である。悪い組織は基準を持たず、判断も責任も現場個人の胸先三寸に押しつける。よい組織は基準を会社側に置き、線を越えた相手には会社の名前で断る。前者では現場が消耗し、優秀な人から辞めていく。後者では現場が安心して顧客に寄り添える。そして、過去に前者のやり方で売上が立ってしまった組織ほど、この転換が遅れる。現場の忍耐で埋めた数字は、戦略の不在を隠す包帯として、驚くほどよく機能してしまうからだ。**過去三年の売上のうち、仕組みで得た分と、誰かの我慢で得た分を、切り分けて説明できるだろうか。** 最後は測定の問題に行き着く。管理表に「今月いくら売ったか」しか欄がなければ、組織はそれだけを最大化する。そこに再来店率や顧客あたりの生涯価値、離職率といった欄が並んだ瞬間、「安いほうを勧めて信頼を残す」という行為が、初めて数字として姿を現す。見えないものは評価されず、評価されないものは現場の善意としてしか存在できない。善意は、続かない。**あなたの評価指標に、来月ではなく三年後に効いてくる項目はいくつあるだろうか。** ### 実務への含意 - 「どの顧客を断るか」の基準を明文化し、断る判断は会社の名前で行う。現場個人の勇気に依存させない。 - 短期売上と並べて、再来店率・顧客あたり生涯価値・離職率を同じ管理表に載せる。載っていない価値は、組織には存在しないのと同じ。 - 過去の成功パターンを棚卸しし、「仕組みで勝った部分」と「誰かの我慢で埋めた部分」を分離する。後者は再現できないので、戦略の資産として数えない。 ### 参考文献 - 『真実の瞬間 SASのサービス戦略はなぜ成功したか』ヤン・カールソン(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478330247?tag=digitaro0d-22) - 『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』戸部良一ほか(中公文庫)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4122018331?tag=digitaro0d-22) - 『ストーリーとしての競争戦略 優れた戦略の条件』楠木建(東洋経済新報社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492532706?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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