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ショートストーリー
全方位の人
金曜の夕方、製造ラインで小さな事故が起きた。出荷を待つ製品が台ごと傾き、検品にあたっていたスタッフが手をかすめて軽い怪我を負った。縫うほどではない。だが誰かが撮った写真がその夜のうちに広まり、週末を待たずに「管理体制はどうなっている」「安全を軽んじている」という声が積み上がっていった。
月曜の朝、品質統括部長の沢渡のもとに、役員からの一報が届いた。全工場、全ラインの緊急総点検。今週中に報告書を上げろ、と。
招集された現場リーダーたちの顔は、会議室に入る前から曇っていた。彼らは知っている。総点検とは、通常の出荷を止めないまま、夜と休日を潰して書類の升目を埋める作業に他ならないことを。
「部長、これは誰のための点検ですか」
若いライン長の久保が、抑えた声で口を開いた。「事故は防がなきゃいけない。それは本当にそう思います。でも先月、雑務を減らすって決めたばかりですよね。これ以上積んだら、今度こそ辞める人間が出ます」
沢渡は配られた点検項目の束を黙って繰っていた。三百を超える項目。そのほとんどは、今回の事故と何の関係もなかった。台が傾いたのは、固定用の治具が一つ足りなかったから。原因はその一点に尽きる。
叩きたい人々は、治具が一つ足りなかったことなど見ない。彼らが見たいのは、誰かが深く頭を下げる姿と、「全社をあげて総点検しました」という分かりやすい免罪符だ。そして、その免罪符の代金を払うのはいつも、騒ぎから最も遠い場所で黙々と働く人間だった。声を上げて働き方を守れと言っていた口が、ひとたび事故が起きれば、現場をさらに締め上げる側に回る。その矛盾に、誰も気づかない。
沢渡は役員に電話を入れた。
「総点検は、治具の固定に絞らせてください。三百項目ではなく、三項目。そのかわり私が今日中に全工場を回って、自分の目で確認します。報告書も私が書きます。現場には、いつも通りの仕事をさせてやってください」
「それで世間が納得するか」と役員は言った。
「納得させるのは点検の数じゃありません。二度と傾かない、という事実です。それを最短で作るのが、私の役目だと思っています」
その週、現場の誰一人として休日を奪われなかった。治具はその日のうちに全ラインへ行き渡り、傾く台は一つもなくなった。帰り際、久保が小さく頭を下げたのを、沢渡は気づかないふりをした。
優れた指示とは、増やすことではなく、削って、的を射抜くことなのかもしれない。騒がしさの中で、何を足さないかを決められる者だけが、遠くの現場までを守れる。
論考
足し算の安心、引き算の責任
何らかの事故や不祥事が起きたとき、組織の多くは対応を「足す」方向に動く。全社一斉の点検、新たな報告義務、増えていくチェック欄。足し算は目に見えて、わかりやすく、外部に「やっています」と示しやすい。だが、足された業務の大半は、実際の再発防止とは無関係なことが多い。問い:直近の「再発防止策」のうち、原因に直接対応した項目は何割あっただろうか。
ここには二次的な負荷の連鎖がある。突発的な出来事は人々の即時的で感情的な反応を呼び、その反応は組織に防御を促す。組織は責任を問われないための「アリバイ」を整えようとし、その作業負荷は最も遠い現場へと流れ落ちる。皮肉なのは、平時には「働き方を守れ」と訴えていた声が、有事には現場をさらに締め上げる側へ回ることだ。問い:あなたの組織で生まれた対策は、誰の時間を消費して成り立っているか。
とはいえ、点検や報告そのものが無駄なのではない。説明責任は組織の信頼の基盤であり、再発防止を怠れば同じ事故が繰り返される。過剰反応を批判するあまり、必要な対応まで「過剰だ」と切り捨てれば、それは形を変えた別の怠慢にすぎない。問い:削るべき対応と残すべき対応を、何を基準に分けているか。
だとすれば、問われるのは反応の有無ではなく、的の絞り方である。優れた指示とは足し算ではなく引き算だ。原因の一点を見極め、そこに資源を集中し、無関係な負荷を現場に降らせない。感情的な空気の防波堤となり、本質的な対策だけをスマートに切り出す。これは増やすより難しく、責任も重い。問い:その引き算の判断を、組織の中で誰が引き受けているか。
全方位を見渡せる視点とは、目の前の出来事だけでなく、その後に連鎖して起こる負荷まで読む力である。騒がしさの中で何を足さないかを決められる者だけが、遠くの現場までを守れる。問い:次の危機が来たとき、あなたは足す人か、削る人か。
実務への含意:
- 対策を決める前に「この負荷は誰の時間で払われるのか」を一度問う
- 再発防止は項目の数ではなく、原因への命中度で評価する
- 感情的な外圧と本質的な安全対策を切り分け、前者の防波堤になる
### 参考文献
- 『ファスト&スロー(上)あなたの意思はどのように決まるか?』ダニエル・カーネマン(早川書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4150504105?tag=digitaro0d-22)
- 『学習する組織――システム思考で未来を創造する』ピーター・M・センゲ(英治出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4862761011?tag=digitaro0d-22)
- 『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』戸部良一ほか(中央公論新社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4122018331?tag=digitaro0d-22)
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