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ショートストーリー
ふたつの地図
金曜の午後、都内のコワーキングカフェは客がまばらだった。森田俊介は、地方で撮った映像をラップトップに流しながら、編集点が決められずにいた。町工場の三代目がインタビューの最後に見せた、照れくさそうな笑顔。そこにどうテロップを添えるか、三週間前の自分なら即決していたはずなのに、今日は手が止まる。
三年前、中堅のIT企業を辞めたとき、解放感はあった。異動の辞令に納得がいかず、ちょうど趣味で撮っていた動画の視聴数が伸び始めた時期だった。退職して半年、貯金を削りながら動画制作だけで食いつなぐことを試みたが、収入の見通しが立たず挫けかけた。結局、地方の町工場や小さな酒蔵を訪ねて、彼らの仕事を五分尺で切り取る仕事を続けているうちに、自治体や企業から少しずつ依頼が入るようになった。会社員時代の七割の収入。それで、困らなかった。
困らなかったのは、金銭の話だ。最近気になっているのは別のことだった。
「森田?」
顔を上げると、東條沙織が立っていた。元同僚、隣の課の主任だった女性だ。今は事業開発部の部長候補らしい、と噂で聞いていた。
「座ってもいい?」
東條はブラックコーヒーを置き、こちらを見た。「元気そう。動画、時々観てるよ」
「ありがとう」
「辞めた人が羨ましいって、最近ちょっと思うんだよね」
森田は笑った。「羨ましいのは、辞めた瞬間だけだよ。三ヶ月もすれば、誰に褒められるわけでもない作業が続く。会議も社内報も、嫌だと思ってたけど、あれ全部、他人に見られる装置だったんだなって、辞めてから気づいた」
「でも、自由でしょう」
「自由は、向こう岸じゃなかった。『誰に向けて働くか』を、自分で決めないといけない重労働だった」
東條は少し黙ってから言った。「実は、今の話を私にしてほしくて、来たかもしれない」
「何かあった?」
「部長になる打診を受けた。受けるか、辞めるか、迷ってる」
森田は、三年前の自分を思い出した。あの頃の彼は、「会社を辞めれば何かが始まる」と信じていた。実際に始まったものは、始まっていない期間の方が長かった。
「辞めるかどうか、より」森田は慎重に言葉を選んだ。「辞めた後、自分の『観客』をどこに作るか、それを先に決めたほうがいい。会社にいると、観客は会議室に勝手にいる。辞めると、誰もいない場所に立って、拍手を自分で呼ばないといけない」
「拍手、ほしい人だけが辞めるべき?」
「違う。拍手の送り手を、自分で選びたい人が辞めるべきだと思う」
東條が息を吐いた。「そういう話が、聞きたかった」
会計を済ませて店を出るとき、東條は森田の新作のリンクをスマホに保存した。「三代目の笑顔、好きだな」
「観たら、感想を送って」
「送る」
森田は席に戻り、編集画面を開いた。三代目の笑顔の下に、テロップを置いてみる。最初に観てくれる人の顔を、具体的に思い浮かべられた気がした。
地図を広げて旅先を決める感覚と、組織で次の配属を待つ感覚は、似ているようで根のところが違う。どちらの地図にも、空白はある。ただ、空白をどう埋めるかを、最初に決めた側が、それを自由と呼ぶのだろう。
論考
自由はトレードオフである——組織を降りたあとに待つ再設計の労働
会社を辞めれば自由になれる、という物語は根強い。確かに、辞めた直後には時間と場所の自由が手に入る。しかし、その自由は長くは単独では立っていられない。人の心理は、自律性だけでなく、有能感と関係性を同時に必要とするからだ。
問い:組織を辞めた人が最初に失うのは、時間ではなく他者ではないか。
組織は、業務と同時に「観客」を提供している。上司、同僚、顧客、評価制度。それらは自由を制限する代わりに、自分の仕事が誰のためのものかを自動で可視化する仕組みとして働いている。辞めた瞬間に失うのは命令系統だけではなく、この可視化装置である。自律性は増える。だが有能感と関係性は、一度ゼロに戻る。
問い:いま自分の仕事を見ている人の顔を、具体的に三人挙げられるか。
ここに反論がある。SNSやプラットフォームを使えば、新しい観客は誰でも作れる。実際、発信活動で生計を立てる人は増えた。観客の作り方が民主化された、という見方は正しい。しかし、その観客はプラットフォームのアルゴリズムと規約に生存基盤を握られており、古い組織依存を新しい依存で置き換えたに過ぎない、という批判も成立する。
問い:その観客は、プラットフォームが仕様変更しても残り続けるか。
組織を降りることの本質は「自由の獲得」ではなく「貢献先の再設計」である。かつて会社が無償で与えてくれた観客・評価・所属を、自分で調達し直す作業だといってもよい。市場を相手にするだけの活動は、金銭的なリターンがあっても、承認や関係性の欠落を埋めにくい。だから続かない。逆に、誰かの笑顔や反応が返ってくる活動に出会えたとき、初めて自由は持続可能な構造を手に入れる。
問い:いま続けている活動は、誰の顔を具体的に思い浮かべられるか。
辞めるかどうかは、辞めた後の観客設計に先立って決めるべきではない。どこに立つかではなく、誰に向かって立つかが、自由を持続させる。組織に残る場合も、観客を組織の枠内だけで想定していると、昇進が止まった瞬間に手応えを失う。観客の設計は、離職者だけでなく、在職者にとっても同じ重みの作業である。
問い:観客を組織の外にも一人以上、持てているか。
実務への含意
- 離職を検討するなら、金銭の準備と同じ重さで「貢献先と観客の仮説」を事前に用意する。
- 組織に残る人も、評価制度と無関係な観客を少なくとも一人、社外に確保しておく。
- 失敗した活動は能力不足ではなく貢献先の設計ミスと捉え、相手を入れ替えて再試行する。
### 参考文献
- 『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)100年時代の人生戦略』リンダ・グラットン/アンドリュー・スコット(東洋経済新報社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492533877?tag=digitaro0d-22)
- 『モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか』ダニエル・ピンク(講談社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4062144492?tag=digitaro0d-22)
- 『キャリア・アンカー——自分のほんとうの価値を発見しよう』エドガー・H・シャイン(白桃書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4561233857?tag=digitaro0d-22)
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