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ショートストーリー

縦書き

名前のない設計図

総務部の片山朋子は、自分のことを「要領が悪い人間」だと思っていた。 たとえば、全社イベントの準備を任されたとき、彼女はまずノートを開く。会場の下見、備品の手配、関係部署への連絡、当日の動線、トラブル時の代替案――すべてを付箋に書き出し、時系列で並べ、依存関係を矢印でつなぐ。同僚たちが「片山さん、まだ準備してるの?」と軽く笑うほど、彼女の段取りは細かかった。 「みんなはこんなことしなくても、さっとできるのにね」 片山はいつもそう思っていた。周囲が感覚でこなしていることを、自分は一つひとつ手順に落とさないとできない。それが劣等感の根っこだった。 ある日、経営企画室の須賀という男が総務に異動してきた。四十代半ば、業務改善プロジェクトのリーダーを歴任してきた人物で、口数は少ないが観察力が鋭いと評判だった。 須賀は最初の一週間、ほとんど何も言わずに部署の仕事を見ていた。片山がノートに手順を書き出す様子も、黙って眺めていた。 二週目の月曜日、須賀が片山のデスクに立った。 「片山さん、先週のイベント準備のノート、見せてもらえますか」 片山は恥ずかしそうにノートを差し出した。「すみません、私こうしないとできないタイプで……」 須賀はしばらくページをめくっていたが、やがて顔を上げた。 「これ、業務フロー図そのものですよ」 片山は意味がわからなかった。 「僕が経営企画で半年かけてやってきたのは、各部署の『なんとなくやっていること』を手順書に落とす作業なんです。みんな自分の仕事を説明できない。『なんとなくこうやってます』としか言えない。暗黙知を形式知にするのが、どれだけ大変か」 須賀はノートの一ページを指差した。 「ここ、備品手配の前に会場のコンセント位置を確認してますよね。これ、なんでですか」 「延長コードの長さが足りないと当日困るので……」 「こういうのが暗黙知なんです。普通の人は当日になって『コード足りない』と慌てる。片山さんはそれを事前に可視化できている」 片山は黙った。褒められている気がしたが、それをどう受け取ればいいのかわからなかった。 須賀も、それ以上は言わなかった。 その日の帰り道、須賀は自分の判断を振り返っていた。本当は片山に「業務改善チームに来ないか」と声をかけたかった。彼女の能力を活かせる場所がある、と。 だが、須賀は踏みとどまった。 片山にとって、あのノートは「できない自分を補うための杖」だ。それを急に「武器だ」と言い換えられたら、彼女の足元が揺らぐかもしれない。自分がいいことを言いたいだけなのか、本当に彼女のためなのか。その境界が、須賀には正直に見えなかった。 翌朝、須賀は片山にこう言っただけだった。 「あのノート、来月のプロジェクト会議の参考にしたいので、コピーさせてもらっていいですか」 片山は少し驚いた顔をしたが、「はい、どうぞ」と答えた。 それだけのことだった。 けれど片山は、その日からノートを書くとき、少しだけ背筋が伸びた。自分のやり方を「すみません」と言わなくなるまでには、まだ時間がかかるだろう。でも、誰かがあのページを必要としているという事実が、小さな支点になった。 須賀は会議室で、片山のノートのコピーを眺めながら思った。 伝えるべきことを、伝えるべきタイミングで、伝えるべき分量で届ける。それが本当のコミュニケーションなのだと、二十年この仕事をしてきて、ようやく腹に落ちた気がした。 名前をつけてもらえないまま、確かに存在している能力がある。それに気づく目を持つ人間が、黙って隣にいること。それだけで変わることが、たぶんある。

論考

縦書き

見えない能力を見つける目――暗黙知の発見とメタコミュニケーションの技法

#### 序 組織の中には、本人すら気づいていない能力が埋もれている。特に「暗黙知を形式知に変換する力」――つまり、誰もが無意識にこなしている業務を、手順として言語化できる能力は、業務改善やナレッジマネジメントにおいて極めて高い価値を持つ。しかしこの能力は、持ち主自身が最も気づきにくいという逆説を抱えている。なぜなら、本人にとってはそれが「普通にできないから仕方なくやっている補助行為」に過ぎないからだ。 **問い:あなたの組織に、自分の強みを「弱点の補償」だと誤認している人材はいないか?** #### 展開 野中郁次郎のSECIモデルが示すように、組織の知識創造は暗黙知と形式知の相互変換によって駆動される。だが現実の職場では、「なんとなくうまくやっている人」の暗黙知を引き出す作業は常に困難を伴う。多くのベテラン社員は自分の判断基準を「勘」としか説明できない。この状況において、自らの行動を逐一工程分解し、言語化できる人材は、組織にとって稀有な存在である。 重要なのは、この能力の発見には「観察者の目」が不可欠だという点だ。本人が自分の行動を「要領が悪い」と捉えているとき、それを「いや、これは業務フロー設計そのものだ」と翻訳できる人間が組織内にいるかどうかで、その能力が活かされるか埋もれるかが決まる。 **問い:あなたは部下や同僚の「困り事」の中に、組織的価値のある能力を見出す目を持っているか?** #### 反証 ただし、言語化能力が高いことが即座にビジネス成果に直結するとは限らない。工程を分解できても、それを統合して意思決定に結びつける力は別の能力である。また、すべての暗黙知が形式知化に適しているわけでもない。過度な手順化は柔軟性を殺し、イノベーションの阻害要因にもなりうる。 さらに、他者の隠れた能力に気づいたとしても、それを伝えること自体がリスクを伴う場合がある。相手が自分の行動を「苦手の克服策」として位置づけているとき、急に「それは才能だ」と伝えることは、相手の自己理解の枠組みを揺るがしかねない。 **問い:能力の「発見」と「伝達」の間に、どれだけの配慮のプロセスが必要か?** #### 再構成 ここで重要になるのが、メタコミュニケーションの視点である。何を伝えるかではなく、相手にどう届くかを先に設計するという思考法だ。 ある考え方によれば、優れたコミュニケーターとは「正しいことを言う人」ではなく、「相手が受け取れる形で届けられる人」である。これは対人関係だけでなく、マネジメント全般に適用できる原則だ。部下の強みを発見したとき、それを直接的に伝えるのか、環境を整えて本人が自ら気づく機会を作るのか。その判断には、相手の文脈を読む力と、自分の動機を正直に点検する誠実さが求められる。 そしてこの「動機の棚卸し」こそが、実は最も見落とされがちな要素である。相手を褒めたいのは純粋な善意からなのか、それとも自分が「良い上司」でありたいという欲求からなのか。その境界を曖昧にしたまま行動すると、善意が相手にとっての負荷に変わることがある。 **問い:あなたが最後に部下を褒めたとき、その動機を正直に分析できるか?** #### 示唆 暗黙知の発見、メタコミュニケーション、動機の誠実な棚卸し。これらはいずれも、思考の余白がなければ実行できない。多忙な日常の中で、自分の判断プロセスを振り返る時間を確保すること自体が、現代のビジネスパーソンにとっての課題であり、同時に競争優位の源泉でもある。 深く考える余白を持つ者だけが、他者の中に埋もれた価値を見つけ、それを壊さない方法で届けることができる。 #### 実務への含意 - **人材発見の視点転換**:部下や同僚の「非効率に見える行動」の中に、組織的に価値のある能力が隠れていないかを定期的に点検する - **伝達の設計**:他者の強みに気づいたとき、直接伝えるのではなく、本人が自然と気づける環境や機会を設計することを検討する - **内省の時間確保**:自分の判断や動機を振り返る余白を意識的に確保し、メタコミュニケーション能力の土台とする ### 参考文献 - 『知識創造企業(新装版)』野中郁次郎・竹内弘高(東洋経済新報社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492522328?tag=digitaro0d-22) - 『さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0』トム・ラス(日経BP社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4532321433?tag=digitaro0d-22) - 『人を動かす 改訂文庫版』D・カーネギー(創元社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/422210134X?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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