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ショートストーリー

縦書き

三つの財布

経理部の水野真紀は、予算会議の資料を前に眉をひそめていた。 社員研修プログラムの年間予算が、昨年比で二割も増えていた。提案者は人事部の佐伯課長。水野が経理として異動してきてからまだ四か月、社内の力学はまだ読みきれない。だが数字の異常は見逃せなかった。 「佐伯さん、この外部講師の費用なんですが。一回あたり四十万円で年間十二回。これ、かなりの額ですよ」 佐伯は笑顔を崩さなかった。五十代半ばのベテランで、社内では「人を育てる佐伯さん」として信頼が厚い。 「水野さん、研修は投資だからね。社員の成長は数字に換算できないんだ」 水野は黙った。その言い方には反論しにくい空気があった。だが同じ会議で、佐伯は営業部が申請した顧客管理システムの月額三万円のサブスクリプション費用を「無駄だ」と切り捨てていた。年間三十六万円。研修の一回分にも満たない金額だ。 会議の後、水野は隣の席の先輩、堀田に聞いてみた。 「佐伯さん、研修には太っ腹なのに、システム費用にはすごく厳しいですよね」 堀田はコーヒーを啜りながら答えた。「佐伯さんだけじゃないよ。うちの会社、部署によって金銭感覚がバラバラなんだ。営業は接待費に甘いし、開発は機材には惜しまないけど、出張費はケチる。同じ一万円でも、どこから出すかで反応が全然違う」 水野はその言葉が引っかかった。同じ会社の、同じお金なのに。 翌週、水野は過去三年分の予算データを引っ張り出して分析を始めた。すると奇妙なパターンが浮かび上がった。各部署が「聖域」として守っている費目がある一方で、判で押したように削られる費目もある。しかも、その基準は実際の費用対効果とほとんど相関していなかった。 たとえば、総務部は毎年オフィスの観葉植物のリース代を真っ先にカットする。年間十二万円。一方で、ほとんど使われていない応接室の高級家具のメンテナンス費、年間四十八万円は手つかずのまま通っている。 水野はこの分析結果を資料にまとめ、月次の部長会で発表することにした。タイトルは「予算の聖域と死角」。 発表の日、会議室には各部署の部長が揃っていた。水野は淡々とデータを並べた。感情を排して、事実だけを示す。どの費目がどれだけの成果に結びついているか。どの費目が「習慣」で守られ、どの費目が「習慣」で切られているか。 最初に反応したのは佐伯だった。 「水野さん、研修の効果は数値化できないと言ったはずだ」 「はい。でも、佐伯さんが却下されたシステム費用も、効果を数値化する前に切られていますよね」 会議室が静まった。 水野は続けた。「私が言いたいのは、どれが無駄でどれが必要かということではありません。私たちが、同じ金額を見ているのに、費目によって全く違う判断をしているという事実です。それが本当に合理的な判断なのか、一度立ち止まって確認しませんか」 営業部の田中部長が腕を組んだ。「確かに、接待費は聖域だな、うちは。でも最近の受注データ見ると、接待の多い案件と少ない案件で成約率に差がないんだよな……」 開発部の小林部長も口を開いた。「うちも機材費は青天井みたいになってる。去年買った検証機、三台のうち二台はほぼ使ってない」 佐伯はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。 「……確かに、研修は"いいこと"だから、中身を精査してなかったかもしれない」 水野は少し驚いた。佐伯が折れるとは思っていなかった。 会議の後、堀田が声をかけてきた。「よくやったね。でも、あの後すぐに変わるかな」 「すぐには変わらないと思います」と水野は答えた。「でも、自分たちの判断の癖に気づくだけでも、次の予算会議は違うものになると思うんです」 堀田は頷いた。「見えない財布を見えるようにした、ってことか」 水野はデスクに戻り、来月の予算レビューの準備を始めた。数字は嘘をつかない。だが、数字を見る人間の目には、自分でも気づかないフィルターがかかっている。それを外すのは、きっと一度の会議では終わらない仕事だった。

論考

縦書き

「見えない財布」が判断を歪める――心理会計がビジネスに与える影響

**序:同じ一万円は、本当に同じ価値か** 一万円は一万円である。当然の事実だが、私たちの行動はこの原則に従っていない。趣味に使う一万円は軽やかに手放せるのに、業務上の会食に三千円を支出するだけで強い抵抗を感じる。こうした現象は「心理会計(メンタルアカウンティング)」と呼ばれ、人間が心の中に複数の仮想口座を持ち、用途や状況ごとに異なる基準で金銭を評価していることに起因する。この仕組みはビジネス上の意思決定にも深く入り込んでいる。では、組織の資源配分において、心理会計はどのような歪みを生んでいるのだろうか。 **展開:組織における「聖域」と「犠牲枠」** 企業の予算編成を観察すると、ある費目が毎年ほぼ無条件に承認される一方で、別の費目が習慣的に削減対象となるパターンが見られる。研修費や接待費は「投資」として聖域化されやすく、ツール導入費やシステム利用料は「コスト」として真っ先にカットされる傾向がある。しかし、この分類は費用対効果の分析に基づいているとは限らない。多くの場合、それは組織の文化や部署の価値観に根ざした「心理的な仕分け」である。ある調査では、企業の予算配分における意思決定の約六割が、前年踏襲や慣例に基づいており、実際のROI分析を経ていないとされる。組織にも個人と同様の心理会計が存在するのではないか。 **反証:心理会計は合理性のショートカットでもある** ただし、心理会計を全否定するのは早計である。予算を用途別に区分すること自体は、管理の効率化に寄与する。家計における「食費」「教育費」「娯楽費」の区分がなければ、支出の全体像を把握することは困難になる。組織においても、部署別・費目別の予算管理は必要不可欠な仕組みである。問題は、その区分が固定化し、区分の妥当性自体が問い直されなくなる点にある。合理的なショートカットとして始まった仕分けが、いつの間にか「思考停止のフレーム」に変質する。その境界線は、どこにあるのだろうか。 **再構成:「見えない財布」を可視化する仕組み** この歪みに対処するには、まず組織内の心理会計を可視化する必要がある。具体的には、費目ごとの予算を「削減容易度」と「実際の費用対効果」の二軸でマッピングし、両者の乖離が大きい領域を特定する手法が有効である。削減容易度が高いにもかかわらず費用対効果も高い費目は、不当に軽視されている可能性がある。逆に、削減容易度が低く費用対効果も低い費目は、聖域化の疑いがある。重要なのは、この作業を定期的に行い、「なぜこの費目はこの金額なのか」を問い直す文化を作ることである。心理会計は無意識に作用するからこそ、意識的な棚卸しが必要になる。では、どの頻度で、誰がこの棚卸しを主導すべきだろうか。 **示唆:判断の癖を知ることが、判断の質を上げる** 心理会計は人間の認知構造に深く組み込まれた仕組みであり、完全に排除することはできない。しかし、自分たちが「見えない財布」に支配されているという自覚を持つだけでも、意思決定の質は変わる。重要なのは、すべての支出を同じ基準で評価することではなく、異なる基準で評価していることに気づくことである。 **実務への含意** - 予算レビューの際に「この費目が聖域化されていないか」を定期的に問い直すチェックリストを導入する - 部署横断の予算検討会で、各部署の「当然視されている支出」を相互に質問し合う機会を設ける - 新規費目の承認時に、既存の類似費目との比較分析を必須プロセスとして組み込む ### 参考文献 - 『ファスト&スロー(上)』ダニエル・カーネマン(早川書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4150504105?tag=digitaro0d-22) - 『実践 行動経済学』リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン(日経BP)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4822247473?tag=digitaro0d-22) - 『予想どおりに不合理』ダン・アリエリー(早川書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4150503915?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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