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ショートストーリー
通りの灯
商店街「さくら通り」で三十年、定食屋「まるよし」を営む関口正志は、朝五時に起きて出汁を引くことから一日を始める。妻の和子と二人、十二席のカウンターを切り盛りしてきた。常連は近隣の工場やオフィスで働く人たち。派手な店ではないが、昼時には行列ができることもあった。
異変が起きたのは、市の中心部で大規模な再開発計画が発表されてからだ。
さくら通りを含む一帯が「景観整備重点地区」に指定された。老朽化した建物の改修義務、営業時間の制限、看板サイズの規制――次々と通達が届いた。市は「街の価値を高めるため」と説明したが、関口には締め上げにしか見えなかった。
「改修費用だけで五百万ですよ。うちみたいな店にそんな余裕あるわけないでしょう」
商店街の寄り合いで、花屋の村瀬が声を荒らげた。出席した二十三人の店主のうち、すでに五人が閉店を決めていた。
市の担当者は説明会で淡々と語った。「補助金制度がございます。申請いただければ審査のうえ、最大五十万円を支給いたします」
五百万の改修に五十万の補助。しかも申請書類は三十ページを超え、審査に三ヶ月かかるという。関口は隣に座る和子と目を合わせた。和子は小さく首を横に振った。
一軒、また一軒と店が消えていった。
最初に気づいたのは、向かいの金物屋が閉めた翌週のことだ。真新しい内装工事の音が朝から響いていた。できあがったのは洗練されたカフェだった。運営しているのは都心に本社を置く外食チェーンだと、不動産屋の小山が教えてくれた。
「大手さんは改修費なんて屁でもないですからね。むしろこの規制で家賃が下がったのをチャンスだと見てる。もう何件も問い合わせが来てますよ」
小山は悪びれもせずに言った。商売だから仕方がない。だが関口は、三十年かけて作り上げた通りの風景が、まるでジオラマの部品を差し替えるように変わっていくのを見ていられなかった。
ある夜、店を閉めた後、関口は一人でさくら通りを歩いた。かつて魚屋だった場所はタピオカドリンクの店になり、畳屋だった場所にはコワーキングスペースの看板がかかっていた。どの店も清潔で、きれいで、そしてどこか同じ顔をしていた。
「関口さん」
声をかけてきたのは、三軒隣でお好み焼き屋を営む片桐照代だった。六十八歳、この通りでは関口に次ぐ古株だ。
「あんた、まだやるの」
「やりますよ。借金してでも改修します」
「なんで」
関口は少し考えた。意地だと言えば格好がつくが、正確ではない。
「うちの出汁の味を知ってる人がいるからです。あの人たちが昼に来て、六百八十円の定食を食べて、ああうまかったって言って午後の仕事に戻っていく。それがなくなったら、この通りはただの不動産になる」
片桐は黙って関口を見つめ、それからふっと笑った。
「あんたに言われちゃ、私も辞められないねえ」
翌月、関口は信用金庫で融資を受け、最低限の改修工事を始めた。壁を塗り直し、換気設備を入れ替えた。厨房はそのままだ。出汁を引く鍋も、和子が嫁入りのときに持ってきたお玉も変えなかった。
工事の間、常連の田中が毎日のように様子を見に来た。
「関口さん、再開したら絶対最初の客になるからな」
「ありがとうございます。でも田中さん、朝五時には来れないでしょう」
「五時に開けんのかよ」
「出汁は朝引くもんです」
再開の日、カウンターは満席にならなかった。十二席のうち、埋まったのは七席。以前の半分近い客足だ。通りを歩く人自体が減っている。新しいチェーン店は駐車場を備え、車で来る客を広域から集めている。定食屋に車で来る人はいない。
それでも関口は朝五時に店を開けた。出汁の香りがさくら通りに漂うと、片桐が暖簾をくぐってきた。
「おはよう。味噌汁だけちょうだい」
「二百円です」
「高くなったね」
「百八十円から二十円上げました」
片桐は味噌汁を一口すすり、「うん」とだけ言った。
関口は知っている。この通りはもう元には戻らない。大手資本の店が並び、効率化された街並みが広がっていくだろう。数字の上では、通りの売上は以前より増えるかもしれない。
だが、朝五時の出汁の香りは、数字には載らない。
店を出た片桐が、通りの向こうで手を振った。関口は小さく手を上げて返した。空はもう明るくなり始めていた。
論考
規制が生む空白地帯――画一的ルールはなぜ地域経済を蝕むのか
**序**
ある商業エリアに一律の規制が導入されたとき、最初に退場を迫られるのは誰か。多くの場合、それは資本の薄い小規模事業者である。行政が「街の価値向上」や「秩序の維持」を掲げて導入する規制は、その意図とは裏腹に、地域経済の多様性を削り取る刃になりうる。なぜ善意の規制が破壊的な結果をもたらすのか。この構造を検証する必要がある。
*問い:自治体が導入した規制によって、対象地域の事業者構成はどのように変化したか。業種・規模別の推移データで検証できるか。*
**展開**
ジェイン・ジェイコブズが指摘したように、都市の活力は多様な用途と多様な事業者の混在によって維持される。画一的な規制は、この混在を「整理」する方向に作用する。改修義務、営業時間制限、設備基準の厳格化――個々の施策は合理的に見えても、その総和は小規模事業者にとって致命的な負担となる。一方で資本力のある大手チェーンにとって、こうした規制はむしろ参入障壁の低下を意味する。既存の小規模事業者が退出することで空きテナントが増え、好条件での出店が可能になるからだ。ある考え方によれば、規制は意図せず「市場の再編装置」として機能する。強者に有利な競争環境を行政が整備するという逆説が生じるのである。
*問い:規制導入前後で、対象地域の平均テナント資本規模はどの程度変化するか。*
**反証**
もちろん、規制なき市場が最適解とは限らない。安全基準の不備は事故を招き、無秩序な営業は住環境を悪化させる。規制そのものを否定するのではなく、問うべきはその設計である。一律の基準ではなく、事業者の規模や業態に応じた段階的な適用があれば、小規模事業者の退出は緩和できた可能性がある。また、小規模事業者の撤退を規制だけに帰するのは単純化が過ぎる。家賃の高騰、後継者不足、消費者行動の変化など、構造的な要因は以前から進行していた。規制は「最後の一押し」であって唯一の原因ではない。
*問い:段階的規制を導入した地域と一律規制を導入した地域で、小規模事業者の存続率に有意な差はあるか。*
**再構成**
ここで注目すべきは、退出した事業者が残す「空白」の性質である。それは単なる物理的な空きテナントではない。長年にわたって築かれた顧客との関係性、地域の記憶、暗黙知としての商慣習――こうした無形資産は、新規参入者には引き継がれない。大手チェーンが入居しても、地域全体の売上は回復するかもしれないが、街の「固有性」は失われる。どの地方都市に行っても同じチェーン店が並ぶ風景は、まさにこの構造の帰結である。行政が本当に守るべきは建物の外観ではなく、多様な事業者が共存できる経済的条件ではないか。
*問い:地域の事業者多様性指数と、その地域の長期的な経済成長率の間に相関はあるか。*
**示唆**
規制を設計する側には、その規制が「誰を退場させるか」を事前に検証する責任がある。形式的な補助金や自己申告制のステッカーでは、構造的な不均衡を是正することはできない。現場を知らない意思決定は、善意であっても破壊的な結果を招く。
**実務への含意**
- **規制影響評価の義務化**:新たな規制の導入前に、事業者の規模別・業態別の影響をシミュレーションし、結果を公開すること
- **段階的適用の設計**:小規模事業者には猶予期間と実効性のある支援(改修費の実質負担分への補助)を組み合わせること
- **多様性指標の導入**:地域経済の健全性を売上総額だけでなく、事業者の多様性(業種数・規模分布)でも測定すること
### 参考文献
- 『[新版]アメリカ大都市の死と生』ジェイン・ジェイコブズ著(鹿島出版会)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4306072746?tag=digitaro0d-22)
- 『商店街はなぜ滅びるのか』新雅史著(光文社新書)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4334036856?tag=digitaro0d-22)
- 『小さな会社の稼ぐ技術』栢野克己著(日経BP)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/B01MRWW0UI?tag=digitaro0d-22)
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