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ショートストーリー

縦書き

小声の届く店

「それ、柚原さんに回しておいて。あの人なら安心だから」 食品卸の商品管理課で、この言葉を聞かない日はなかった。課長の真壁も、一日に三度は口にしていた。 柚原は入社七年目になる。規格書の数字の誤りを、ざっと目を通しただけで拾い上げる。取引先の機嫌の変化を、メールの句点の打ち方から読み取る。同僚が焦っていれば探しているファイルの場所をそっと教え、残業の夜には黙って温かいお茶を配って回った。課の書類の大半は、いつのまにか柚原の机を通るようになっていた。 真壁の望みは単純だった。ミスの出ないこの流れを、止めないこと。だから礼は惜しまなかった。 十一月、課の打ち上げは駅前の居酒屋だった。隣の団体が乾杯を繰り返し、店員が注文を叫び返す。負けじと誰もが声を張る。斜め向かいの柚原の口が動いた。 「え、なに?」 柚原がもう一度、何か言った。 「ごめん、もう一回!」 三度目に、柚原は小さく笑って首を振った。 「なんでもないです」 真壁はジョッキを掲げ、怒鳴るように言った。 「柚原さんがいないと、うちは回らないからな!」 そうだそうだと笑い声が上がり、柚原は笑ったまま頭を下げた。 気にかかったのは翌週の夜だった。残業の机に、お茶が来ない。七年間で初めてのことだと、真壁は湯のみのない手元を見て気づいた。 帰りがけに声をかけ、路地裏の小さなバーに入った。八席のカウンターに客は二人だけで、マスターがグラスを置く音まで聞こえた。 「この前、何て言ったの」 柚原はグラスを見たまま、ささやくように答えた。 「少し、減らしてもらえませんか、って」 かすれるほどの声だった。それでも一語も欠けずに届いた。 「仕事を?」 「仕事は好きです。減らしてほしいのは、音のほうです」 柚原の受信箱には【至急】のついたメールが一日に四十通届く。本当にその日のうちに要るものは三通ほどだという。全員宛ての同報、鳴りっぱなしのチャット、朝礼の唱和、スピーカーにしたままの電話。 「皆さんには聞き流せるものが、私には全部、同じ大きさで届くんです。弱いのは分かってます」 そう言ってから、柚原は少し考えて続けた。 「【至急】が増えたのは、つけないと読んでもらえないからです。読んでもらえないのは、全部についているからです。誰も悪くないんです。みんな、隣より少し大きな声を出しているだけで」 真壁は黙った。一日三度の「安心だから」も、その音のひとつだったと、初めて思った。 翌週、部長の大友に案を持っていった。【至急】は一人一日一通まで。全員宛ては朝夕の二回にまとめる。会議の議題は前日に配る。柚原の机を通す書類は三分の一に減らす。 「特別扱いじゃないか」大友は眉を上げた。「緊張感が抜けたら漏れが出る。柚原にはちゃんと評価で報いてるだろう。つらいなら別室でも耳栓でも用意してやれ」 「評価で報いるって、結局もっと載せてるだけです。あの人を動かすんじゃなくて、部屋の音量を下げたいんです」 「物足りなくなるぞ、そんな職場」 「三か月だけ、ください」 初めのひと月、フロアは落ち着かなかった。若手は「なんだか仕事をしていない気がする」とこぼし、大友は「静かすぎて気味が悪い」と言った。漏れは出なかった。一通だけの【至急】は、誰もがすぐに開いた。 二か月目の会議で、前日に議題を読んできた柚原が、初めて手を挙げた。主力のだしパックが伸びない件だった。宣伝が足りないという話に、柚原は静かに言った。 「宣伝費が削られたのは、開発費が超過したからです。超過したのは、規格の変更が三回あったからです。三回とも、【至急】で決まっています」 誰も聞き返さなかった。聞き返す必要がなかった。 その週の昼、社員食堂で、大友が冷ややっこに醤油差しを傾けかけて、ふと手を止めた。 「最近、若いのの声がよく聞こえるんだよ」 向かいの真壁にそうつぶやくと、何もかけないまま豆腐を口に運び、「薄いな」と言って、もうひと口食べた。 年の瀬の残業の夜、真壁は慣れない手つきでお茶を淹れて配った。ひと口飲んだ柚原が、ささやくように言った。 「薄いです」 フロアの端で、誰かが吹き出した。

論考

縦書き

足すのではなく、引く――繊細な人が燃え尽きない職場の音量

序:頼りになる人ほど、先に減っていく

どの職場にも、小さな誤りに気づき、同僚の焦りを察し、じっくり考えたうえで核心を突く人がいる。刺激を深く受け取る気質、いわゆるHSP(Highly Sensitive Person)の特徴と重なる人たちだ。責任感が強く、手を抜けず、困っている人を放っておけない。周囲はその力を評価し、「あの人なら安心」と仕事を回す。

問題はここにある。評価と依存は、同じ言葉で語られる。なまじ頼りになるからこそ仕事が集まり、本人は期待を裏切るまいと応える。称賛が続いているあいだ、消耗は誰の目にも見えない。当てにし続ければ、最も頼りになる人から順に使いつぶされていく。

問い:職場で「あの人なら安心」と言われている人の業務量は、この半年で増えていないか。

展開:過剰な分を差し引く

繊細な人材を活かすとは、もっと褒めることでも、もっと任せることでもない。本人にとって過剰になる分を、環境から差し引くことである。同報メール、鳴り続ける通知、すべてに付いた緊急の印、その場で意見を求められる会議。多くの人が聞き流せる刺激を、深く処理する人は聞き流せない。誤りを見つける力と、刺激に疲れやすいことは、同じ気質の表と裏である。片方だけを取り出して使うことはできない。

静かなバーなら、ささやき声でも相手に届く。騒がしい居酒屋では、誰もが声を張らなければ届かず、声の小さい人から黙っていく。声の届かない人を鍛えるより、店の音量を下げるほうが早い。

問い:緊急と表示された連絡のうち、実際にその日のうちに必要だったものは何割か。

反証:特別扱いではないのか

反論はありうる。第一に、HSPは心理学の概念であり医学的な診断名ではない。働く人を気質で分類することには危うさがある。第二に、強い刺激を避けられない仕事は現実にある。第三に、配慮が腫れ物扱いに変われば、本人から挑戦の機会を奪う。

「周囲が鈍感なのだ」という批判も一面的である。濃い味に慣れた人は、好んで舌を鈍らせたわけではない。

問い:配慮の結果、本人の担当から手応えのある仕事まで消えていないか。

再構成:濃くなった味付けは、全員の問題である

だから論点を、個人から環境へ移す。人は強い刺激に順応する。醤油を多く使う人には適切な塩加減が物足りず、薄味に慣れた人にはその塩加減こそ絶妙に感じられる。職場の「緊張感」にも同じ仕組みが働く。注意を引くために強い言葉を使い、慣れてさらに強い言葉を使う。誰にも悪意はない。全員が隣より少し大きな声を出すうちに、必要な音量そのものが上がっていく。

だが、仕事を進めるのにその過剰さは本当に要るのか。一通だけの緊急連絡は、四十通の緊急連絡より確実に読まれる。繊細な人は、環境の過剰さに最初に気づく人でもある。その人が疲れているなら、ほかの人は疲れていないのではなく、慣れて感じなくなっているだけかもしれない。

問い:通知や会議を減らしたとき、誰の成果がどう変わるかを測ったことはあるか。

示唆:薄味に戻る期間を、組織が引き受ける

繊細な人の力は、足し算ではなく引き算で長持ちする。称賛も追加の配慮も、刺激の総量を減らさなければ、消耗を先送りするだけである。薄味は最初、誰にとっても物足りない。その物足りなさを一定期間引き受け、舌が戻るのを待てるかどうかが、組織の力量になる。

問い:職場の中で「なくても仕事が進む強さの言葉」は、いくつ挙げられるか。

実務への含意

  • 緊急表示に「一人一日一件」などの上限を設け、全員宛ての連絡は時刻を決めてまとめる
  • 会議の議題は前日に配り、その場の即答だけで人を評価しない
  • 「あの人なら安心」の業務を棚卸しして確認作業を分散し、手応えのある仕事は本人に残す

参考文献

  • 『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』エレイン・N・アーロン(SBクリエイティブ)
  • 『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』スーザン・ケイン(講談社)
  • 『ドーパミン中毒』アンナ・レンブケ(新潮社)

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