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ショートストーリー

縦書き

減らすための稟議書

汐見信用金庫港北支店の融資係、高梨遥の机に、三輪製作所の借り換え申請が回ってきたのは、月末の夕方だった。  三輪製作所は従業員十二人の金属加工の町工場で、取引は先代のころから続いている。ファイルをめくると、この十年、借入残高のグラフは一度も下を向いていなかった。借り換えのたびに、少しずつ上乗せされている。 「いつも通りでいい」  支店長の宮部が、背中越しに言った。 「運転資金を少し足しておけば、社長も安心する。三輪さんとは長い付き合いだ」  宮部は支店の誰もが認める融資の名人だった。工場が新しい機械を入れれば仕事が増えた時代に、審査部を説き伏せて稟議を通す技術を磨き上げた人だ。「宮部さんが通すと言えば通る」。若手はみな、その書きぶりを手本にしてきた。高梨もその一人だった。だが今日は、ペンが止まった。  先週、三輪製作所を訪ねたときのことを思い出していた。工場の機械は半分が止まっていた。売上の八割は一社の大手部品メーカーからで、その単価は五年前から据え置かれている。二代目社長の三輪は、事務所の古いソファで笑った。 「融資が下りると、その月はよく眠れるんですよ。宮部さんが大丈夫と言ってくれると、ほんとに大丈夫な気がしてね」  眠れる、という言葉が耳に残った。お金は三輪の不安を和らげている。けれど、不安の元は何ひとつ変わっていない。そして、和らげてくれるものほど手放しにくい。  翌朝、高梨は宮部のデスクの前に立った。 「支店長。三輪さんが困っているのは、お金でしょうか」  宮部は老眼鏡を外した。 「資金繰りに困っている会社に、資金を出す。ほかに我々の仕事があるかね」 「足りないものを足す仕事なら、そうです。でも三輪さんに足りないのは、単価の交渉力と、二社目の取引先です。追加融資は、それを考えなくて済む時間を買っているだけに見えます」 「時間を買うのも立派な支援だ」 「十年、買い続けています」  言ってから、高梨は自分の声が震えているのに気づいた。宮部の顔から表情が消えた。 「君は、私のやり方が三輪さんを駄目にしたと言いたいのか」 「違います」高梨は首を振った。「支店長のやり方で救われた会社はたくさんあります。ただ、三輪さんの困りごとは、支店長がその技術を磨いたころの困りごととは、もう形が違うと思うんです」  その日、宮部は何も言わなかった。  三日後、高梨は一通の稟議書を出した。融資額は前年と同じで、上乗せはない。添付したのは、十二か月かけて借入を少しずつ減らす返済の工程表と、取引先を広げるための商談会の一覧、それに支店が月に一度、三輪と一緒に数字を見る面談の計画だった。表紙には、迷った末にこう書いた。「減らすための稟議」。  宮部はしばらく黙って工程表を見ていた。それから、三輪製作所の十年分の借入推移を自分で引き出し、右肩上がりの線を指でなぞった。どの年の稟議にも、宮部の印鑑が押してある。 「通し方なら、三十年分知っている」と宮部は言った。「減らし方は、誰にも教わらなかったな。教える必要があるとも思わなかった」  彼は印鑑を押し、立ち上がった。 「三輪さんのところには、私も行こう。説明するのは私の役目だ」  工場の事務所で、宮部は三輪に頭を下げた。 「これまでの私のやり方は、今の三輪さんには合っていなかったかもしれません」  三輪は目を丸くし、それから不安そうに笑った。 「減らすんですか。正直、怖いですね。今夜は眠れないかもしれない」 「しばらくは、眠れない夜もあると思います」と高梨は言った。「だから、月に一度、一緒に数字を見させてください」  三輪は長いこと黙り、やがて机の引き出しから一冊の手帳を取り出した。 「実は、別の会社から見積もりの依頼が来ていたんです。単価が合わない気がして、ずっと放っておいた」  彼がその話を誰かにするのは、初めてだった。  帰りの車の中で、宮部は窓の外を見ながら言った。 「足すほうが、ずっと楽だったな」  高梨はうなずいた。足すことが善意なら、減らすことは、もっと手間のかかる善意なのだと思った。

論考

縦書き

始める技術と、やめる技術——善意の型が時代とずれるとき

## 序:名人芸は、ある時代の課題から生まれる 組織にも個人にも、ある時代に磨き上げた「得意技」がある。得意技は、それが生まれた時代の課題にぴったり合っていたからこそ評価され、手本となり、型として受け継がれてきた。問題は、課題の形が変わっても、得意技の形は変わらないことにある。しかも、得意技を使う人に悪意はない。相手を助けたいという善意が、そのまま古い型を繰り返させる。時代とのずれは、怠慢からではなく、誠実さから生まれることが多い。 **検証可能な問い:自分の職場で「名人芸」と呼ばれている技術は、いつの時代の、どんな課題を解くために生まれたものか。** ## 展開:和らげるものは、手放せない ずれは目に見えにくい。古い型でも、相手の苦痛は一時的に和らぐからだ。資金繰りの不安には追加の資金、成績の不安には塾の追加、業績の不安には値引き。快楽なら人はいずれ飽きるが、苦痛を和らげるものには飽きることがない。苦痛が戻るたびに、また必要になる。こうして、問題の解決ではなく苦痛の緩和に、提供する側と受け取る側の双方が寄りかかっていく。子の受験に熱心な親も、子の将来のためと思いながら、自分自身の不安を和らげている面がある。「良い学校に入れば一生安泰」という型は、それが成り立った時代には合理的だった。 **検証可能な問い:自分たちが提供しているものは、相手の問題を解いているのか、それとも相手の不安を和らげているだけなのか。** ## 反証:緩和が必要な場面は確かにある もちろん、苦痛の緩和そのものが悪いわけではない。資金が尽きれば会社は潰れ、不安で眠れなければ考えることもできない。時間を買うことが立派な支援になる場面は確かにある。また、古い型をすべて捨てればよいわけでもない。良い学校に入ることも、運転資金を手当てすることも、それ自体は今も有効な手段である。型そのものを責めれば、型に救われてきた多くの人を見落とすことになる。 **検証可能な問い:その緩和は「次の手を打つための時間」として使われているか、それとも「次の手を考えなくて済む時間」になっているか。** ## 再構成:「やめ方」と、権威の側の一言 二つを見分ける鍵は、やめ方が用意されているかどうかにある。多くの組織は、始める技術、つまり導入し、通し、提供する技術には熱心に投資する。一方で、減らし、手放し、終わらせる技術は、教える必要すら意識されない。始め方しか知らない手は、相手から自分で立つ力まで奪ってしまう。もう一つの鍵は、権威の側の態度である。顧客にとっての担当者、患者にとっての医師、子にとっての親は、いずれも権威だ。受け手に「権威を鵜呑みにするな」と求めるだけでは足りない。権威の側が「自分のやり方は、今のあなたには合っていないかもしれない」と口にできるかどうかが、受け手が自分の問題を語り始めるきっかけになる。 **検証可能な問い:自分の組織で、最後に「やめ方」や「減らし方」が教えられたのはいつか。** ## 示唆:型に期限を書き込む 時代の変化に後れをとるのは、怠けた人ではなく、ある時代に誰よりも誠実に働いた人であることが多い。だからこそ、型を責めるのではなく、型に期限を付ける発想が要る。何かを始めるときに、終わらせる条件と減らす手順を同時に書いておく。立場が上の者ほど、自分の得意技の賞味期限を先に疑う。それが、善意を依存に変えないための、地味だが確実な方法である。 **検証可能な問い:いま始めようとしている施策や支援に、終わらせる条件は書かれているか。** ### 実務への含意 - 定番の施策や支援策ごとに「どの時代の、どんな課題に向けて作られたか」を書き出し、今の相手の課題と照らし合わせる - 新しく何かを始めるときは、減らす手順と終わらせる条件を同時に決めておく - 立場が上の者ほど「自分のやり方が合っていないかもしれない」と先に言葉にし、相手が問い直せる余地をつくる ### 参考文献 - 『仕事のアンラーニング——働き方を学びほぐす』松尾睦(同文舘出版) - 『THINK AGAIN——発想を変える、思い込みを手放す』アダム・グラント著、楠木建監訳(三笠書房) - 『イノベーションのジレンマ 増補改訂版——技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』クレイトン・クリステンセン著、玉田俊平太監修、伊豆原弓訳(翔泳社)

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