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ショートストーリー

縦書き

いつもの紙

総務課の木崎が、コピー用紙の束を桐谷の机にそっと置いた。 「桐谷さん、これ、違うのよ」  ラベルには「A4 500枚×5冊」とある。注文書どおりの品だ。桐谷は画面の発注履歴を確かめてから、首をかしげた。 「品番、資料のとおりですよね」 「品番はね。でもメーカーが違う」  中堅の産業機器メーカー、東和精機。本社総務課で十四年にわたり備品の発注を担ってきた木崎が、来月から工場の管理部門に移ることになった。後任は、営業から異動してきたばかりの桐谷。課長の沢渡からは「今月中に引き継ぎを終えてくれ」と言われている。  木崎が作った引き継ぎ資料は丁寧だった。発注先、締め日、品目ごとの品番。桐谷はそれを忠実になぞった。なのに、届いたものが次々と「違う」と言われる。  ボールペンの替芯は0.5ではなく0.7だった。来客用のお茶は、同じ銘柄でもティーバッグではなく茶葉のほうだった。ファイルは色が一段濃い。どれも資料には書かれていない。 「書いてないことを正解にされても、当てようがないです」  桐谷が言うと、木崎は少し黙ってから、低い声で返した。 「毎日使ってたでしょう。見てれば分かると思ったのよ」  その一言が、桐谷には刺さった。確かに営業時代、会議室のお茶も手元のペンも、何も考えずに使っていた。誰かが選んでいたことすら意識しなかった。だが、それを「見ていなかった」と責められるのは納得がいかない。  木崎の側にも言い分があった。十四年間、誰からも何も言われなかった。文句が出ないということは、みんなこれでいいと思っているのだと信じてきた。それが、自分が抜けると一か月で崩れていく。自分の仕事は、そもそも誰にも見えていなかったのかもしれない。  翌週、沢渡が二人を会議室に呼んだ。 「発注ミスで、役員フロアから苦情が来てる。木崎さん、資料をもっと細かくしてくれないか」 「細かくって、全部ですか。四百品目ありますよ」  木崎の声が硬くなった。桐谷は机の下で拳を握り、それから口を開いた。 「資料を増やすより、一週間、木崎さんの発注に横で付かせてください。選ぶところを見たいんです」  沢渡は木崎の顔をうかがった。木崎は短く「どうぞ」とだけ言った。  隣の席で見る木崎の発注は速かった。画面を流しながら、ほとんど迷わない。桐谷はそのたびに「なぜこっちなんですか」と聞いた。  0.7の替芯は、役員の一人が筆圧の強い人で、0.5だと紙を破ってしまうから。茶葉は、月に一度の定例で訪れる取引先の会長が、急須で淹れた茶を喜ぶから。濃い色のファイルは、倉庫の薄暗い照明の下でも背表紙が読みやすいから。  理由を聞くたび、木崎の説明は少しずつ長くなった。「こんなこと聞かれたの、初めて」と小さく笑う場面もあった。  四日目、コピー用紙の話になった。 「このメーカーのは、三階の古い複合機で詰まらないの。ほかのは紙が柔らかくて、湿気の多い日にやられる」  桐谷は手を止めた。 「三階の複合機、去年の秋に入れ替わってますよね。営業にいたとき、リース更新の書類を回しました」  木崎の指が止まった。しばらく画面を見つめてから、「……そうだった」とつぶやいた。 「じゃあ、この紙にこだわる理由は、もうないのね」  単価は一冊あたり八十円高い。年間にすれば、ちょっとした額になる。  月末、桐谷がまとめ直した引き継ぎ資料には、品番の横に「理由」の欄が一列増えていた。理由が書けなかった二十数品目には「要確認」の印をつけ、木崎と一緒に一つずつ洗い直した。そのうち半分は、もう誰も必要としていない選択だった。  異動の前日、木崎は新しい資料をめくりながら言った。 「私ね、自分のこだわりを分かってほしかったんだと思う。でも、自分でも半分忘れてた」 「残りの半分は、ちゃんと理由がありました」  桐谷がそう言うと、木崎は照れたように資料を閉じた。  翌月、三階の複合機には、一冊八十円安いコピー用紙が補充された。紙は一度も詰まらなかった。  黙って使われてきたものは、誰かに理由を尋ねられて初めて、本当に正解だったかどうかが分かる。

論考

縦書き

「暗黙の正解」はなぜ引き継げないのか――委任を差し戻しで終わらせないために

## 序:「頼んだとおり」なのに「違う」 業務を人に任せたとき、「指示どおりにやったのに、違うと言われた」という摩擦がしばしば起きる。原因の多くは、能力や注意力の不足ではない。依頼者の頭の中に、言葉にされていない「唯一の正解」があることにある。依頼は品目や作業名という粗い単位で伝えられるが、評価は品目と条件(価格帯、品質、用途、相手の好み)が交わる一点で下される。この非対称が、任せる側と任される側の双方に不満を残す。 **問い:直近で差し戻した依頼のうち、指示に書かれていなかった条件が理由だったものは何割か。** ## 展開:「黙って使う」は承認ではない 暗黙の正解は、その業務を日常的に担う人の中にだけ積み上がる。周囲の人は、担当者が選んだものを黙って使う。担当者はそれを「承認されている」と受け止めるが、実際には関心が向いていないだけのことが多い。このずれは、担当の交代や一時的な代行のときに初めて表に出る。そのとき担当者が傷つくのは、ミスそのものよりも「自分の日頃の判断が誰にも見られていなかった」という事実である。この種の摩擦が感情的になりやすいのはそのためだ。 **問い:チームの「定番」の選択について、担当者以外の何人がその理由を説明できるか。** ## 反証:観察不足か、説明不足か もっとも、「任される側がもっと周囲を見ておくべきだ」という主張にも一理ある。毎日使うものに無関心なのは、業務への当事者意識の欠如とも言える。一方で、暗黙の条件をすべて文書化するのは現実的ではない。数百の品目や判断に理由を書き出すコストは大きく、分厚い資料は読まれないまま古びる。さらに、唯一の正解しか認めない運用そのものが委任の効率を下げている、という見方も成り立つ。 **問い:暗黙条件を文書化する工数は、差し戻しと再作業にかかる工数を上回っているか。** ## 再構成:「正解の幅」と「理由」を共有する 観察不足か説明不足かという二択をやめ、正解の幅と理由を明示する設計に切り替えるとよい。まず、許容範囲が狭いもの(外すと致命的なもの)と、広いもの(近ければ可)を分ける。狭いものには理由を添え、想定から大きく外れる場合は購入や実行の前に確認する、というルールを決める。暗黙知を一度に文書へ落とそうとせず、代行者が隣で観察し「なぜ」を尋ねる期間を設けると、理由の言語化は進みやすい。その過程で、すでに根拠を失った「習慣としての正解」が見つかることも少なくない。 **問い:現在の定番のうち、理由を問われて答えられないものはいくつあるか。** ## 示唆:引き継ぎを見直しの機会に変える 委任の品質は、任される側の注意力よりも、正解の構造がどれだけ共有されているかで決まる。暗黙の正解を持つ側は、それが自分にしか見えていないことを自覚する必要がある。任される側は、確認を「能力不足の露呈」ではなく「正解の幅を知る手続き」と捉えるべきだ。組織としては、定番の理由を定期的に問い直すことで、引き継ぎを単なる業務の移管から改善の機会へと変えられる。 **問い:次の引き継ぎ資料に、「理由」の欄を一列加えることはできるか。** ### 実務への含意 - 依頼時は品目だけでなく、許容範囲(「ここは外せない」「ここは近ければ可」)を一言添える - 担当交代では、資料を増やす前に、代行者が隣で「なぜ」を聞ける観察期間を設ける - 理由を説明できない定番は「要確認」として洗い出し、慣習を見直す対象にする ### 参考文献 - 『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー(ちくま学芸文庫)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4480088164?tag=digitaro0d-22) - 『任せる技術―わかっているようでわかっていないチームリーダーのきほん』小倉広(日本経済新聞出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4532316758?tag=digitaro0d-22) - 『知識創造企業(新装版)』野中郁次郎・竹内弘高(東洋経済新報社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492522328?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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