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ショートストーリー
十秒の壁
三ツ木テクノサービスの二階、営業技術部のフロアには、島ごとに紙の城壁が建っていた。
保科遥はデスクの間を歩きながら、その高さを目で測った。去年より確実に伸びている。一年前、全社を挙げて「ペーパーレス推進」を掲げたはずだった。掲げて、三か月で崩れた。
「保科さん、また例の話ですか」
声をかけてきたのは、機器保守を束ねる矢内所長だった。五十代半ば、現場叩き上げ。彼のデスクだけは紙が積まれていない。積まれていないのは、すべてが分厚いバインダーに整然と収まっているからだ。背表紙には手書きの分類名。三十年分の知恵が並んでいる。
「所長、去年うまくいかなかった理由が、やっと分かった気がするんです」
「コピー代を減らせ、でしたっけね」
矢内は薄く笑った。皮肉ではなく、事実を確認する笑い方だった。
去年の推進資料を、保科は昨夜あらためて読み返していた。冒頭に大きく「年間印刷コスト三百二十万円削減」とある。目標は数字で、期限も明確で、そして誰の仕事も楽にしなかった。紙を減らせと言われた現場は、印刷を我慢し、必要になればまた刷った。我慢が切れれば元に戻る。当たり前だった。
「今度は、コストの話はしません」
「じゃあ何の話を」
「探す時間の話です」
保科はストップウォッチを取り出した。
「三年前の松ノ木工場向けの改修仕様書、出せますか」
矢内は立ち上がり、書棚の三段目から迷いなくバインダーを抜いた。指が背表紙を滑り、目当ての仕切りで止まる。十四秒。
「速い」保科は正直に言った。
「三十年やってますから」
「じゃあ、所長がいない日は」
矢内の手が止まった。
保科は続けた。先月、所長が外部研修で不在だった日、若手が同じ資料を探して四十分かかったこと。結局見つからず、客先に「明日折り返します」と伝えたこと。その一日で失注したわけではない。ただ、失わなくてよかったものを一つ失った気はした。
「十秒で出せない情報は、会社の情報じゃなくて、個人の情報なんだと思います」
矢内はしばらく黙っていた。それから、バインダーの背を指でなぞった。
「保科さん。俺はね、紙が好きなわけじゃないんだ」
「では」
「考えるときに、紙がいるんだよ」
彼は机の隅から、線と矢印だらけのA4用紙を引き寄せた。配管の図に、赤で三つの案が書き殴られている。画面の上では、こうはいかないのだと矢内は言った。手が動く速さで思考が動く。消さずに横へ書き足せる。この紙がなければ、自分は判断を誤る。
保科はその紙をしばらく見ていた。それから、自分の推進案の一行を、その場でペンで消した。「社内における紙の使用を全面的に禁止する」。
「考えるための紙は、禁止しません」
「ほう」
「ただし、残す紙は、禁止させてください」
考えるための紙と、残すための紙を分ける。前者は自由。後者は一枚残らずスキャンして、決まった場所に置き、決まった名前をつける。線を引く位置を変えただけの提案だった。
矢内は腕を組み、天井を見た。
「線引きの管理が面倒だな」
「面倒です。だから、判断基準は一つにします。自分以外の誰かが、いつかそれを探すかどうか」
翌週から、フロアの隅にスキャナが一台増えた。増えたのはそれだけだ。新しいシステムも、専用の端末も入れていない。ただ、朝礼の最後に質問が一つ加わった。
「昨日、探すのに十秒以上かかったものはありましたか」
最初のうち、手はほとんど挙がらなかった。誰も自分の探し物を数えていなかったからだ。三週目あたりから、ぽつぽつと挙がりはじめた。ファイル名の付け方がばらばらで見つからない。フォルダが深すぎる。そもそも共有されていない。
保科はそれを三つの箱に仕分けた。ルールの問題か、置き場所の問題か、使い方を知らない問題か。原因を人に置かないと決めていた。誰かがだらしないから見つからない、という結論だけは出さないと決めていた。
三か月が過ぎた。城壁は、腰の高さから膝の高さになった。劇的ではない。
ある朝、矢内が自分の机で、三十年物のバインダーを一冊ひらいていた。中の紙を一枚ずつ抜き、スキャナに通している。
「所長、それ、残すやつですか」
「半分はな」
矢内は抜いた紙のうち、何枚かをそのまま脇の箱に入れた。
「残り半分は」
「俺が考えるために書いたやつだ。誰も探さない」
彼は箱を持ち上げ、シュレッダーの前へ歩いていった。その背中を見ながら、保科は自分の手帳に一行だけ書いた。ボールペンで、紙に。
守られる決まりは、我慢を求めない。ただ、置き場所を変えるだけだ。
論考
探す時間は、組織の品質指標である
業務のデジタル化は、しばしば「コスト削減」の名のもとに始まり、そして終わる。印刷費、保管スペース、郵送費。数字にしやすいものが目標に選ばれるからだ。だがコスト削減を旗印にした変革は、現場に我慢を配るだけで、誰の仕事も楽にしない。我慢はいつか尽きる。数か月後、書類の山は元の高さに戻る。──あなたの組織が直近で打った業務改善策は、何かを削るものだったか、それとも何かを可能にするものだったか。
狙いを置き直すべき場所は、共有の環境づくりにある。情報が、組織の全員から等距離にある状態をつくること。そう捉え直したとき、進み具合を測る指標も変わる。削減額ではなく、「必要な情報にたどり着くまでの時間」である。この時間には組織の状態がほぼすべて映る。命名の規則が甘ければ伸び、置き場所が分散していれば伸び、使い手が検索の作法を知らなければ伸びる。一人あたり一日十分の探索時間は、百人の組織なら年間およそ四千時間になる。──任意の三年前の契約書を、担当者が不在の状態で、自社は何秒で出せるか。
とはいえ、デジタル化を絶対視する態度には無理がある。思考の道具としての紙には、画面が持たない自由度がある。書き足す、囲む、線でつなぐ、全体を一望する。この操作の速さは、そのまま発想の速さに直結する。徹底を求めすぎれば、効率化の名のもとに判断の質を落とすことになる。──直近で難しい判断をしたとき、その思考の痕跡はどこに残っていたか。
対立の解き方は、紙とデジタルの優劣を決めることではない。「考えるための紙」と「残すための紙」を分けることだ。前者は個人の道具であり、制約を課す理由がない。後者は組織の資産であり、他人が探す前提で扱われねばならない。両者を分ける基準は一つで足りる。自分以外の誰かが、いつかそれを探すか。探すなら、それは組織の情報であり、個人の引き出しに置いてはならない。禁止の範囲を狭めるほど、決まりは守られる。──いま手元にある書類のうち、他人が探しうるものは何割か。
定着しない仕組みには、たいてい二つの欠陥がある。目的が現場の利益と結びついていないことと、例外の置き場所が用意されていないことだ。逆に言えば、目的を「探す時間」という誰にとっても切実な指標に置き換え、例外を明示的に許すだけで、特別なシステムを導入せずとも仕組みは回りはじめる。そのうえで、探せない状態が起きたときに、原因を人の怠慢に求めないこと。決まりか、置き場所か、使い方か。この三つに分解して考える限り、改善は続いていく。──直近の失敗を、あなたの組織は仕組みの問題として扱ったか、それとも個人の問題として扱ったか。
### 実務への含意
- 施策の目標を「コスト削減額」から「情報にたどり着くまでの時間」へ置き換え、朝会などで実測値を継続的に集める
- 「考えるための紙」は完全に自由とし、「他人が探す紙」だけをデジタル保存の対象に限定して、禁止の範囲を最小化する
- 情報が見つからない事象は、ルール・置き場所・リテラシーの三分類に仕分けて処理し、個人の資質に帰さない
### 参考文献
- 『知的生産の技術』梅棹忠夫(岩波書店)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4004150930?tag=digitaro0d-22)
- 『イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」』安宅和人(英治出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4862760856?tag=digitaro0d-22)
- 『習慣の力〔新版〕』チャールズ・デュヒッグ(早川書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/415050542X?tag=digitaro0d-22)
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