アイキャッチ画像
ショートストーリー
見本のない棚
三崎パッケージ工業の営業二課に、津田悠介は九年勤めている。菓子メーカー向けの紙箱を売る仕事だ。課の壁一面を、試作品を並べた棚が占めている。津田は客先に持っていく箱を、いつもその棚から選ぶ。棚にない形は、そもそも提案のしようがない。
津田の望みは、はっきりしていた。三十五で主任、四十で係長。父も似た道を歩いた。会社の給与表には等級ごとの数字が並んでいて、自分の四十歳がいくらになるかは、入社二年目には計算できた。その数字を見て、当時の津田は安心した。天井が低いということは、落ちてこないということでもある。
障害は、その天井のほうが少しずつ下がってきたことだった。菓子メーカーの発注は年々小口になり、単価は削られ、営業二課は三年で三人減った。津田は、同じ箱をより安く売る方法だけを考えるようになっていた。
その年の秋、後輩の岸本佳乃が辞めると言った。二十九歳、入社五年目。津田が育てたと言っていい。
「独立します。小さなお菓子屋さんの、箱とラベルと、ネットでの見せ方まで、まとめてやる仕事です」
「食えるのか、それ」
「たぶん、最初は食えないです」
「うちで同じことをやればいいだろう。企画室に手を挙げれば、いずれ」
「津田さん」岸本は棚のほうを見た。「あの棚、私が入ってから一度も中身が変わってないんですよ」
送別会の帰り、課長の宮下は酔っていた。
「ああいうのはな、実家に余裕があるやつがやることだ」と宮下は言った。「うちは違う。俺もお前も違う。分をわきまえるのは、恥じゃないぞ」
津田は頷いた。頷きながら、自分がその言葉を何百回聞いてきたか数えていた。父からも、高校の担任からも、最初の上司からも。誰も嘘をついていない。全員が、自分の見てきた範囲を正直に話しているだけだ。ただ、その範囲がどれも同じ形をしていた。
年が明けて、津田は一度だけ、岸本の仕事を見に行った。奥多摩の古い和菓子屋で、岸本は店主と二時間しゃべっていた。箱の話は最後の二十分だけだった。残りは、店主の祖父の代の包装紙のことや、隣町に残っている紙漉きの職人のことや、客が買った菓子をどこで開けるのかという話だった。
帰りの電車で、津田は自分が客先で何を話しているか思い出そうとした。納期と、単価と、他社の動きだった。九年間、その三つだけだった。
三月、津田は宮下に紙を一枚出した。既存客の菓子屋を十二軒回って、箱以外の困りごとを聞いてくる、という提案だった。売上目標はつけなかった。つけようがなかった。
「それは営業か?」と宮下は言った。
「わかりません。やってみないと」
「失敗したら、お前の評価が下がるぞ」
「下がる幅も、たぶん計算できます」津田は言った。「ずっと計算してきたので」
宮下はしばらく黙っていた。それから判を押した。押しながら、机を見たまま小さな声で言った。
「俺が若い頃は、こういう紙を出すやつを見たことがなかったんだよ」
四月から、津田は十二軒を回りはじめた。半分は箱の注文にすらならなかった。三軒には迷惑がられた。ただ六月に一軒だけ、これまで棚になかった形の箱を作ることになった。八角形の、底の浅い、贈答用ではない箱だった。津田はその試作品を、棚のいちばん目立つ段に置いた。
誰も何も言わなかった。ただ、配属されたばかりの新人が一人、それを手に取って、しばらく裏返していた。
見本は、置かれてはじめて選べるようになる。
論考
選択肢は、見えたぶんだけしか選べない
「職業に貴賤なし」は規範であって、記述ではない。規範としては正しく、記述としては現実と噛み合わない。同じ八時間を使っても、手にする報酬は桁が変わる。この落差を、人はかなり早い段階で肌で知る。問題は落差そのものではない。落差の存在に気づきながら、その構造を一度も言葉にしないまま年を重ねることだ。構造は語られないとき、個人の資質や努力量の問題にすり替わる。──あなたは自分の職業選択を、「選んだ」結果と「知っていた範囲から選ばされた」結果に分けて説明できるだろうか。
人の選択肢は、身近にある見本の数で決まる。両親、親戚、担任、最初の上司。その人たちの職業分布が、そのまま「ありうる人生」の見取り図になる。周囲の九割が勤め人なら、勤め人以外の生き方は霧の向こうに置かれる。悪意も陰謀もない。単に見本が足りない。だから階層は、制度としてよりも情報の偏りとして再生産される。制度を変えなくても、見本の分布が変わらなければ結果は変わらない。──直近の一年であなたが新しく知った「働き方の型」を、いくつ名前で挙げられるだろうか。
とはいえ「選択肢を知れば人生が変わる」は楽観が過ぎる。知ったところで、資本も時間も体力も家族の事情も動かない。届かない選択肢を知ることは、不満の総量だけを増やすこともある。さらに、目立つ成功例は生存者バイアスの塊で、同じ選択をして退場した人の記録はどこにも残らない。見本を増やす行為は、そのまま幻想を増やす行為でもある。──あなたが憧れている働き方について、同じ道を選んで失敗した人の話を三つ挙げられるだろうか。
そこで必要なのは、選択肢を増やすことではなく、選択肢の解像度を上げることだ。ある働き方について、収入の分布、必要な初期投資、続かなかったときの復帰可能性まで、具体的な数字で見える状態にする。解像度が上がれば、「選ばない」という判断も根拠を持つ。憧れは判断ではないが、原価計算を通した憧れは判断になる。階層を突破する必要は必ずしもない。自分がいまどの層にいて、隣の層との境目に何が置かれているかを、名前をつけて把握していればいい。──いまの仕事をやめたときの「復帰コスト」を、あなたは月単位で見積もれるだろうか。
自分の位置を知ることは、諦めることではない。地図を持つことだ。地図を持った人だけが、動かないことを選べる。動かない人生と、動けない人生は、外から見るとほとんど同じ形をしている。違いは本人が理由を説明できるかどうかだけで、そして説明できるかどうかが、次の十年で効いてくる。──五年後のあなたの選択肢を、いま何本、具体的な言葉で書き出せるだろうか。
**実務への含意**
- 部下や後輩に自分の経験を渡すときは、それが「常識」ではなく「見本の一つ」だと明示する。範囲の狭さを添えて渡す。
- 社内外で、自分と異なるキャリア形態の人と、年に数回は具体的な数字の話をする。憧れではなく原価と撤退条件を聞く。
- 制度や評価を設計する側は、「その道を選ばなかった人」の理由を集める。選ばれなかった選択肢のほうに、構造が現れる。
### 参考文献
- 『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)-100年時代の人生戦略』リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット(東洋経済新報社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492533877?tag=digitaro0d-22)
- 『多様性の科学』マシュー・サイド(ディスカヴァー・トゥエンティワン)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4799327526?tag=digitaro0d-22)
- 『THINK AGAIN 発想を変える、思い込みを手放す』アダム・グラント(三笠書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4837958125?tag=digitaro0d-22)
※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています