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ショートストーリー
反対の席
高梨怜が入社した頃、企画部の会議室には楕円のテーブルがあった。今はもう、ほとんど使われていない。会議はオンラインに移り、議題は事前に共有シートへ書き込む方式になった。誰かが意見を置けば、その下に賛同のスタンプが並ぶ。手のひら、拍手、親指。会議そのものは十五分で終わる。効率という物差しで測るなら、これ以上のものはなかった。
新型給湯ユニットの仕様が固まったのも、そういう十五分の中でだった。
高梨には引っかかりがあった。配管を一本にまとめる設計は、図面の上では美しい。けれど、実際の据付現場で壁の内側にどれだけの余裕が残るのか、彼女には像が結べなかった。シートの余白に「据付性について確認したい」と書いた。三十分後、部長の相馬から一行が返ってきた。「確認済みです」。その下に拍手のスタンプが四つ並んだ。
言葉を打ちかけて、消した。もう一度打って、また消した。文字にすると、どうしても相馬個人を疑っているように見えてしまう。賛成は一文字で足りるのに、反対には段落がいる。高梨はスタンプを一つ押して、その日を終えた。
翌週、品質保証部の桧山が企画部のフロアに現れた。定年まであと二年、昔は現場のクレーム対応で全国を回っていた男だ。彼は誰にともなく言った。
「この階、静かですね」
「集中してますから」と相馬が答えた。
「静かなのと、話がないのは、違いますよ」
桧山が置いていったのは一枚の紙だった。仕様確定の前に、三十分だけ「反対の席」を設ける、という提案が書かれていた。誰か一人が反対役に指名され、その案の弱点だけを代弁する。役なので、本人の意見である必要はない。ルールは二つ。提案を否定してよいが、提案した人を否定してはならない。反対役は毎回交代する。
相馬は紙をしばらく見ていた。
「対立を持ち込めば、決まるものも決まらなくなる」
「決まらないんじゃありません」桧山は言った。「決まるのが早すぎるんです」
「早いことの何が問題なんですか」
「早く決まった案は、まだ誰も触っていない案です」
相馬は答えなかった。桧山はそれ以上押さずに帰っていった。その紙を高梨が拾ったのは終業後で、裏に鉛筆で古い型番と日付が書き込まれていた。十二年前の回収案件の番号だと気づくのに、少し時間がかかった。
三十分の会は、想像していたより気まずかった。反対役に指名されたのは、入社二年目の沼田だった。彼は席に着くなり「特にありません」と言った。
「君の意見はいらない」桧山が穏やかに言った。「この案が現場で困る理由を、代わりに言ってほしい。困るのは君じゃない。壁の中だ」
沼田はしばらく黙ってから、研修で見た据付動画の話を始めた。築十五年の住宅で、壁を開けたら想定より配線が多く、職人が二時間かけて経路を組み替えていた。「あれ、点検口の位置が今の図面だと……たぶん、同じことが起きます」
誰も拍手のスタンプを押さなかった。代わりに相馬が立ち上がって、ホワイトボードに壁の断面を描いた。線が二本交差したところで、彼の手が止まった。それから彼は、沼田にではなく、図に向かって「これは、まずいな」と言った。
出荷は二週間遅れた。点検口の位置が二十センチ動いただけの、外からは見えない変更だった。役員会では小さな遅延として処理され、誰も褒められなかった。沼田は自分が何をしたのかよく分かっていない様子で、いつも通り議事録を書いていた。
その週末、高梨が会議室の前を通ると、楕円のテーブルが元の位置に戻されていた。角の一脚だけが、他と向きを変えて置かれている。相馬が椅子の背に手を掛けて、角度を確かめていた。
「次は私が座ります」と彼は言った。「この部署で一番、反対されにくい人間ですから」
反対の席は、誰かを敵にするための椅子ではなかった。まだ言葉になっていない不具合が、座るための場所だった。
論考
摩擦のない組織は、なぜ判断を誤るのか
会議が短くなった組織を、意思決定の速い組織だと考えるのは早い。短さは、検討の密度が上がった結果であることもあれば、検討そのものが省かれた結果であることもある。この二つは、外形上ほとんど区別がつかない。直近三か月の会議のうち、最初に出た案がそのまま通った割合は何%だったか。
接触の総量が減ったから議論が痩せる、という説明は正確ではない。減っているのは総量ではなく帯域である。テキスト中心のやりとりでは、賛成は記号ひとつで表明できるが、反対には文章がいる。しかも反対の文章は、書き手の意図を超えて攻撃的に読まれやすいため、書き手は推敲に時間を割く。こうして賛成と反対のあいだに表明コストの非対称が生まれる。安いほうの意見が多数に見えるのは、多数だからではなく、安いからだ。自分の組織で、賛成一件あたりと反対一件あたりの平均文字数を測ったら、何倍の開きが出るか。
では対立を増やせばよいのか。そうとも言えない。摩擦の多い組織は消耗し、議論の勝敗は論の強さではなく声量や職位で決まりやすい。器のない対立は、容易に人格の否定へ滑る。「あなたのような人はいつもそう言う」という一文は、相手の主張ではなく相手の属性を論点にすり替えている。これは議論が激しいのではなく、議論が放棄されている状態だ。直近の会議で、提案ではなく提案者に向けられた発言はいくつあったか。
必要なのは対立の量ではなく、対立を収める器である。器とは、時間と空間とルールの三点を指す。三十分という区切り、その場でだけ有効という限定、そして「提案は否定してよいが提案者は否定しない」という規則。ここで決定的なのは、反対を個人の意見ではなく役割として配ることだ。役割であれば、反対した人は「反対する人」として記憶されない。属性が汚れないから、次も引き受け手が現れる。あなたの組織で「反対」は個人の性格として語られているか、それとも役割として記録されているか。
孤立とは、人と会わない状態ではない。人とは会っているのに、意見が交換されない状態を指す。同じ部屋にいながら誰も異論を口にしない組織は、物理的には密集していても、認識のうえでは全員が一人でいる。ここを取り違えると、対策は「対面の回数を増やす」に流れ、会議だけが増えて判断は変わらない。増やすべきは接触ではなく、反証の機会である。今週、あなたの案に対して具体的な反証を述べた人は何人いたか。
### 実務への含意
- 意思決定の前に反対役を一名指名する。役割は毎回交代させ、その内容を本人の評価には反映しない。
- 議事録に「検討した代替案と、それを退けた理由」を一行残す。反対が出なかった場合は「反対なし」と明記し、空欄と区別できるようにする。
- 反対の表明コストを下げる。匿名の懸念投稿枠を設ける、あるいは「提案者は初回の反論に即答しない」という運用でよい。
### 参考文献
- 『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』宇田川元一(NewsPicksパブリッシング)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4910063013?tag=digitaro0d-22)
- 『恐れのない組織──「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』エイミー・C・エドモンドソン(英治出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4862762883?tag=digitaro0d-22)
- 『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』平田オリザ(講談社現代新書)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4062881772?tag=digitaro0d-22)
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