アイキャッチ画像
ショートストーリー
注意の残量
生産管理課の朝は、電話の音から始まる。
サンワ精機第二工場で出荷伝票を扱う二階堂圭太は、その日も型番を取り違えた。桁が一つ違うだけの品番が縦に並ぶ製品群で、彼が打ち込んだのは一行下の型番だった。出荷は止まり、客先への謝罪は課長代理の保科佐和子が引き受けた。
「今度こそ、気をつけます」
二階堂は毎回そう言う。そして毎回、本当に気をつけている。佐和子にはそれが分かっていた。彼は雑ではない。むしろ丁寧すぎるほうだ。伝票の綴じ方ひとつとっても、課の誰よりも角が揃っている。
品質会議に出した再発防止策は、四半期で三枚目になった。「ダブルチェックの徹底」「入力後の読み合わせ」「注意喚起の掲示」。部長は紙を眺めて言った。
「で、これで減るのか」
減らなかったから三枚目なのだ、と佐和子は思ったが、口には出さなかった。
会議のあと、係長の大熊が缶コーヒーを差し出してきた。二十年この工場にいる男だ。
「保科さん、あれは甘やかしですよ。俺らの頃はね、一回間違えたら現場に呼ばれて、そこで全部覚えた。伝票なんか手書きだ。それでもミスはしなかった」
「大熊さん、あの席の電話、当時は一日何本鳴ってました」
「え?」
「大熊さんが手書きで伝票を書いてた頃です」
大熊は少し考えて、「十本くらいかな」と答えた。それから自分の言葉に少し引っかかったような顔をして、缶を開けた。
翌週、佐和子は二階堂の席の後ろに椅子を置き、一日座っていた。観察のためだと言うと彼が固くなったので、「私が現場を覚え直すため」と言い直した。
数えたものは三つある。電話の着信、四十七本。チャットの通知、百三十二回。声をかけられた回数、二十九回。そのうち十一回は、大熊からの「例の件どうなった」だった。
二階堂は入力中、平均して四分に一度、手を止めていた。止めるたびに、どの行まで打ったかを目で探し直していた。その探し直しの直後に、取り違えの二件が起きていた。
翌日、佐和子は自分でその席に座り、同じ作業をした。二十年やってきた仕事だ。午後三時、彼女は型番を一桁間違えた。出荷前に自分で気づいたが、指先が冷たくなった。
「注意してなかったわけじゃ、ないんです」
背後で二階堂が言った。責める声ではなかった。むしろ、ようやく言えたという声だった。
四枚目の再発防止策は、これまでと違っていた。掲示物はなかった。書かれていたのは三つだけだ。入力の一時間は課の電話を別の席で受ける。その時間帯のチャットは止める。型番はバーコードで読み取り、手では打たない。
「読み合わせは、やめるんですか」と部長が聞いた。
「人が二回見るより、人が一度も打たないほうが確実です」
「二階堂の教育はどうする」
「教育は続けます。ただ、覚えることと、覚えなくていいことを分けます」
大熊は最後まで渋い顔をしていたが、バーコードリーダーの設置には自分で来た。配線を這わせながら、床を見たまま、ぼそりと言った。
「昔は、覚えることが少なかったんだな」
三か月後、出荷ミスは月あたり三件から一件に減った。ゼロにはならなかった。減った分は、二階堂の手柄でも佐和子の手柄でもない。誰の手柄でもない場所に、静かに空き地ができただけだ。
その空き地で、二階堂は先週、初めて自分から提案を出した。梱包の指示書が二種類あるので統一しませんか、という短いものだった。誰も気づいていなかったわけではない。誰も、気づくための余白を持っていなかった。
気をつけます、という言葉は、何ひとつ約束していない。
論考
「気をつけろ」が対策にならない理由
再発防止策の多くは、最後の一行が同じところに着地する。「今後は注意を徹底する」。これは対策ではなく願望である。願望を文書化しても、翌月の数字は動かない。あなたの職場で直近に承認された再発防止策のうち、担当者の心構え以外を変えたものは何割あるだろうか。
前提を一つ置き換えたい。注意は態度ではなく、残量のある資源である。人が一度に向けられる注意の量には上限があり、しかもその資源は「気をつける」ためだけに使われるのではない。作業手順を頭の中に保持する、途中まで進んだ位置を覚えておく、相手の話の意味を推測する——こうした地味な処理がすべて同じ財布から支払われている。目に入るもの、着信の予感、片づいていない懸案、それぞれが取り分を持っていく。残高が尽きたとき、人は目の前の大きな異常すら見落とす。あなたは自分の作業が一時間に何回中断されているか、数えたことがあるだろうか。
ただし、この見方だけですべてのミスを説明するのは乱暴だ。手順そのものが誤っている場合、知識が不足している場合、そもそも当人がその仕事の意味を理解していない場合、注意の残量をいくら増やしても結果は変わらない。さらに厄介なことに、刺激を削りすぎた環境は、想定外の兆候にも鈍くなる。異物に気づく余白と、異物が入ってこない静けさは、同じものではない。直近半年のミスを分類したとき、注意起因と知識起因と手順起因の比率はどうなるだろうか。
そのうえで、対策は三つの層に整理できる。第一層は「手放す」。頭の中で保持しているものを外に出す。メモ、リスト、掲示——ここには外部化としての効用が確かにある。第二層は「離れる」。注意を奪う対象を作業環境から物理的に外す。端末を引き出しにしまう、割り込みの窓口を別の人に移す。第三層は「埋め込む」。人が注意を向けなくても正しい結果が出るように、仕組みか熟達に処理を移す。読み取り装置、入力の自動化、身体で覚えた手順。下の層ほど実装が安く、上の層ほど効果が大きい。組織が最初に手を出すのは、たいてい一番安い層である。あなたの直近の対策は三層のどこにあり、なぜそこで止まったのか。
ここから見えるのは、注意の配分が個人の徳目ではなく、管理職の設計責任だという事実である。同じ人間が、席を変え、割り込みを変えるだけでミスの頻度を変える。ならば問われるべきは担当者の心構えではなく、その席に一日座って何が起きるかを、管理する側が一度でも自分の身体で測ったかどうかだ。測っていない対策は、精神論の言い換えにすぎない。あなたは、部下がミスをした席に座って同じ作業をしてみたことがあるだろうか。
**実務への含意**
- 再発防止策を書く前に、当該作業中の中断回数(着信・通知・声かけ)を一日分だけ実測する。原因の仮説より先に、環境の実測を置く。
- 対策を「手放す/離れる/埋め込む」の三層に分類し、最下層だけで終わっていないか点検する。掲示物が増えた月は、実質何も変わっていないと疑う。
- チェックの追加は、人の作業を増やす対策であることを忘れない。二人で二度見るより、一度も手で打たない設計のほうが安定する。
### 参考文献
- 『錯覚の科学』クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ(文春文庫)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4167901765?tag=digitaro0d-22)
- 『ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか?』ダニエル・カーネマン(ハヤカワ文庫NF)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4150504105?tag=digitaro0d-22)
- 『全面改訂版 はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』デビッド・アレン(二見書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4576151878?tag=digitaro0d-22)
※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています