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ショートストーリー

縦書き

近道の値段

桐谷澪が始めたのは、自宅の台所で石鹸を煮る小さな仕事だった。 半年前まで、月の売上は数万円だった。それが、何気なく投稿した一枚の写真をきっかけに、注文が雪崩を打った。「アトリエ・ミオ」の名は業界の外にまで知られ、売上は数字の桁がひとつ、またひとつと増えていった。 嬉しさより先に来たのは、恐怖だった。数字が大きくなるほど、自分がその数字を理解していないことがはっきりする。帳簿の意味も、納めるべき額の重さも、澪の手には余った。おまけに澪には、育ちざかりの子どもが三人いた。稼ぎが崩れれば、真っ先に困るのはこの子たちだ。その責任感が、澪をいっそう焦らせた。 そこへ現れたのが、共同経営者を名乗る沢井だった。物腰は柔らかく、言葉は甘い。 「桐谷さん、これだけ稼いで、こんなに持っていかれるのはおかしいですよ。みんなやってることです。ここに架空の外注費を立てる。実際に金は動かさない。絶対にばれません」 沢井は笑っていた。優しい笑みだった。その優しさが、澪の判断を鈍らせた。子どものため、という言葉が喉元まで出かかった。 契約書に判を押しかけたその日、澪は足を止め、古い工房へ向かった。石鹸作りを最初に教えてくれた、引退した職人の徳永を訪ねたのだ。小さな会社で長年、経理も見てきた老人だった。 澪は正直に打ち明けた。売上のこと、税のこと、そして沢井の「近道」のこと。 徳永はしばらく黙って、湯気の立つ鍋をかき混ぜていた。そして、こう言った。 「澪ちゃん、税金が高いんじゃない。あんたが稼げるようになったんだ。減らす方法を聞きたいなら、ひとつだけ教えてやる」 澪は身を乗り出した。 「――もっと稼ぎなさい」 澪は思わず吹き出した。徳永も笑った。だが笑い終えたあと、胸の奥が静かになった。そりゃそうだ、と思った。 「近道はな」と徳永は続けた。「たいてい、他人が敷いた道だ。お前のために敷いてあるんじゃない。お前を使うために敷いてある。使い終われば、向こうは黙って消える」 翌朝、澪は沢井に断りの連絡を入れた。返事は素っ気なく、それきり沢井は連絡を寄越さなくなった。利用価値がないと見たのだろう。その素早さが、かえって澪に多くを教えた。 数字は相変わらず澪の手に余る。だが、澪はもう一人で抱え込まなかった。まっとうな税理士を探し、わからないことをわからないと言えるようになった。稼ぐことも、払うことも、どちらも自分の仕事だと思えるようになった。 石鹸はまた、静かに売れていく。近道を選ばなかったぶんだけ、道は長い。だが、長い道は、誰にも奪えない。子どもたちに残せるのは、その道のほうだと澪は思った。

論考

縦書き

急成長という脆弱性——「近道」を売る者にどう備えるか

成功が速すぎるとき、人は危うい。実力が身につくより先に、規模だけが膨らむからだ。売上や知名度は一夜で跳ね上がることがあるが、それを扱う知識や判断は一夜では育たない。この「規模」と「能力」の落差こそが脆弱性であり、多くの転落はこの隙間で起きる。あなたの周囲で急に評価が上がった人は、その評価に見合う準備を持てていただろうか。 脆弱性があるところには、必ずそれを商う者が現れる。彼らは脅すのではなく、微笑んで近づく。「みんなやっている」「絶対にばれない」「あなただからこそできる」——甘言はいつも、相手の不安と自尊心の両方を同時に撫でる。とりわけ、守るべき家族や失いたくない立場があるほど、その責任感自体が操作の握り手になる。人はなぜ、正論より甘い声のほうを信じてしまうのだろうか。 もっとも、これを「本人の弱さ」や「知識不足」だけに帰すのは早計だ。急成長は本来、称賛されるべき成果でもある。問題は個人の資質より、準備の時間を与えずに規模だけを先行させる構造の側にある。とはいえ、環境のせいだと言い切るのも危うい。最後に判を押すのは本人であり、その一点の責任からは誰も逃れられない。責任と同情は、どこで線を引くべきだろうか。 だからこそ意味を持つのが、誠実な助言者の存在だ。節税の裏技を求めた者に「もっと稼ぎなさい」と笑い飛ばす助言は、一見突き放しているようで、実は「小細工でリスクを背負うより正道で上を目指すほうが安全だ」という最強の防御を差し出している。良い助言者は近道を教えない。近道の多くは他人が自分の都合で敷いた道であり、渡り終えた頃には敷いた者だけが得をしていることを知っているからだ。あなたには、耳の痛いことを笑いながら言ってくれる相手がいるだろうか。 結局、最大の防衛策は想像力である。他人の転落を「自分とは違う世界の話」と切り捨てず、「もし自分が同じ窮地に立たされたら」と一度でも我が身に引き寄せる。その一手間が、甘い声への免疫になる。観察は高みの見物ではなく、自らを戒める訓練になりうるのだ。あなたは最近のニュースを、他人事としてではなく、自分の予行演習として読めているだろうか。 **実務への含意** - 規模が急に伸びたら、まず「わからないこと」を言語化し、利害のない専門家に開示する。抱え込みは脆弱性を増幅させる。 - 「絶対にばれない」「あなただからこそ」という言葉が出た時点で警戒する。甘言は例外なく、相手の利益を隠している。 - 助言者は「近道を教える人」ではなく「王道を退屈でも勧める人」を選ぶ。心地よさではなく、一貫性で判断する。 ### 参考文献 - 『起業の失敗大全 スタートアップの成否を決める6つのパターン』トム・アイゼンマン(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478113858?tag=digitaro0d-22) - 『INTEGRITY インテグリティ 正しく、美しい意思決定ができるリーダーの「自分軸」のつくり方』岸田雅裕(東洋経済新報社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492558039?tag=digitaro0d-22) - 『影響力の武器[第三版] なぜ、人は動かされるのか』ロバート・B・チャルディーニ(誠信書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4414304229?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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