精密部品メーカー「三和テクノ」の調達課長・桑田は、二十年間ずっと同じ計算をしてきた。一円でも安く。それが会社への忠誠であり、彼のささやかな誇りでもあった。
中でも、山あいの小さな工場「丸金製作所」への発注単価は、社内で「桑田価格」と呼ばれるほど低かった。丸金は三和専用の治具を長い年月をかけて揃え、職人の老夫婦が朝から晩まで部品を磨いている。桑田が「悪いけど、この値段で頼むよ」と言えば、主の金森は決まって「はい、なんとかします」と頭を下げた。断れば仕事が消える。それ以外の選択肢を、金森は持っていなかった。桑田もそれを知っていた。知っていて、毎年その糸を少しずつ細くしていった。
山あいの町工場で部品を磨く老夫婦
潮目が変わったのは、業界全体に「適正取引」の指針が下りてきたときだった。発注側がコスト上昇を価格に反映しているか、交渉の記録を残しているか――監査の網が、ある日を境に一気に細かくなった。桑田は役員室に呼ばれ、短く言われた。「桑田価格は、もう通らん。丸金の単価を上げろ」
桑田は戸惑った。長年「優秀な仕事」と褒められてきた節約が、突然「叩き」と名を変えていた。彼自身は何ひとつ変えていない。変わったのは、世界のほうだった。昨日までの常識が、今日の不正になる。その境目を、自分はどこで踏み越えたのだろう。
それでも桑田は、新しい単価表を持って峠を越えた。金森は喜ぶだろう、長年の苦労がようやく報われると。ところが帳場に座っていたのは金森ではなく、本社から来た若い管理職だった。彼は電卓を弾きながら、別の計算を始めていた。「単価が上がるんですね。なら、丸金さん一社に頼る必要はない。自動の研磨ラインを入れて内製したほうが、長い目では安く済む」
帳場で別の計算を始める若い管理職
正しさは、いつも別の正しさを呼ぶ。桑田は何も言い返せなかった。
数か月後、丸金製作所への発注はゼロになった。適正な単価を一度も受け取らないまま、仕事そのものが消えたのだ。下りたシャッターの前で、桑田は金森と最後の立ち話をした。「桑田さん。あんたの安い値段は、確かにきつかったよ」金森は笑った。「でもな、あれがあったから、うちは二十年、夫婦で飯が食えたんだ。安くてもいいから、続けたかったよ」
閉じたシャッターの前での最後の立ち話
桑田は返す言葉を持たなかった。国にとっての正義は、金森を救うはずだった。会社にとっての正義は、効率だった。金森にとっての正義は、安くてもいいから明日も続くことだった。三つの正義は、どれも嘘をついていない。ただ、いちばん細い糸の上に立っていた老夫婦だけが、その摩擦で静かに弾き飛ばされた。
帰りの車で、桑田はふと思った。自分が二十年磨きあげた「安さ」を、いちばん喜んで買っていたのは――値上げを嫌い、一円でも安い物を選び続けてきた、ほかでもない自分たち自身ではなかったか。
夕暮れの峠道を下る。振り返ると、丸金の灯りは、もうどこにも見えなかった。