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ショートストーリー

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譲れない軸

「ミドリ広告」の大阪支社は、地場企業を中心に堅実な取引を積み上げてきた中堅代理店だ。 主任の久保田茜(二十八歳)は、その支社で「真面目な久保田さん」として通っていた。服装はきちんとしたジャケットにパンツ、髪はいつもまとめ、クライアント先でも物腰が柔らかく、年配の担当者受けがいい。支社の売上の一割を一人で担っていた。 しかし、彼女には誰も知らない顔があった。 週末、彼女は格闘技の試合観戦に通い、試合後は下町の立ち飲み居酒屋で一人、焼酎を傾ける。ボクシングとキックボクシングのジムにも月に何度か通っており、ミット打ちで汗を流すのが一番の楽しみだった。試合の戦術を広告戦略と絡めて分析するメモを、こつこつノートに書き溜めていた。 三年前、彼女は匿名でニュースレター「インファイター」を始めた。格闘技の試合を、広告と事業戦略の観点から読み解くコラムだ。 最初は読者も数十人だった。だが半年ほどで業界の関係者に届き、ボクシングのプロモーション会社から「実名で書きませんか」という声がかかった。彼女は迷ったが、実名で続けることにした。 異変が起きたのは、その春だった。 上司の岸田部長(五十二歳)が、コーヒーを片手に彼女の席にやってきた。 「久保田さん、あのコラム、君だろう」 彼女は肯いた。 「君の営業スタイルに合わないとは思うが、うちの会社のイメージとも、合わないんじゃないか。クライアント先で『そちらの久保田さん、格闘技お好きなんですね』と言われたことがあってね。少し、距離を置いたほうがいいんじゃないか」 久保田は数秒、沈黙した。そして答えた。 「部長。距離を置いたほうが仕事はやりやすい、というのは私もわかります。でも、距離を置いた私は、誰とも区別がつかなくなるのです」 「区別……?」 「会社の名刺を置いたら、真面目で堅実な広告代理店の主任は、全国に何千人もいます。私だけに頼む理由は、そこには、ありません。『あの格闘技のコラムを書いている久保田さん』だから頼む──そういう依頼が、この一年で増えました」 岸田は、黙った。 その翌月、彼女の元に、大手のビール会社から直接の打診が入った。スポーツマーケティング部門の新プロジェクトのリードを、社外顧問として彼女に任せたい、という話だった。前職の縁ではなく、ニュースレターを通じた依頼だった。 久保田は、転職するのではなく、ミドリ広告との兼業として引き受けることを選んだ。そして岸田部長に、自分からそれを報告した。 「会社の名前を使わないのなら、構わない」と、岸田は言った。まだ納得はしていない顔だった。 半年後、ビール会社のプロジェクトが局地的なヒットを生み、業界誌で小さく取り上げられた。社内の若手から、「久保田さんみたいなやり方、私もしていいんですか」という相談が、ぽつぽつと増えた。 岸田部長は、社長室でその話題が出たときに、「まあ、あれはあれで、うちの多様性の一つですわ」と、苦笑いしながら答えたという。 久保田はその週末、いつもの立ち飲みで、焼酎のロックを一杯やりながら思った。 期待される自分を演じ続けていたら、結局、誰にも覚えられない人になる。

論考

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「貫ける好き」がブランドになる — 規範通りの自分は、記憶されない

どの職業にも、暗黙の「期待される像」がある。銀行員は堅実、医師は落ち着き、広告の営業は清潔感。これらの像は、顧客や上司の安心のために長年かけて作られてきたものだ。しかし、その像の内側に自分を収めるほど、他の同業者との差別化は消えていく。**問い:あなたが「職業人として期待されている像」を取り払ったとき、あなたを名指しする理由は残るか。** 同質化された市場では、規範通りの専門家は交換可能な部品になる。顧客は特定の誰かを名指しせず、「どこでもいい」と判断する。ここで価値を生むのは、専門性そのものではなく、「専門性に添えられた個性」である。それは趣味、価値観、語り方の癖のようなものだ。一見、仕事とは関係ないように見える。しかし長期で見れば、他者との区別を成立させる唯一の素材になっている。**問い:あなたの個性は、名刺の裏に書けるほど明確か。** 一方で「素の自分を見せる」戦略自体が、洗練されたマーケティングに過ぎない、という批判がある。視聴者に「本物らしさ」を感じさせる技術であり、そこに真の自己表現はない、という議論だ。これには一理ある。演じられた素も、短期的には戦略として機能する。ただし、演じ続けられる素と、無理に作り上げた素は、時間の試練に対する耐性が違う。十年単位で眺めれば、「貫けない素」は綻びを見せる。**問い:あなたの「個性」は、疲れた日にも維持できるか。** 重要なのは「演じないこと」ではなく、「貫けるものを中心に置くこと」だ。どれほど好きか、ではなく、どれほど退屈な日にも触れ続けられるか、で測る。この「摩耗への耐性」を持つ関心事だけが、長期にわたって自己ブランドを支えうる素材となる。規範の外側に立つ勇気よりも、外側に立ち続ける持久力のほうが、希少である。**問い:あなたの「好き」は、十年後も残っているか。** 自分の「貫ける好き」を仕事の近くに置くことは、キャリアの攻めと守りの両方を担う。攻めとしては新しい市場やクライアントとの接点を開き、守りとしては「交換可能な専門家」からの離脱を助ける。業界の同質化圧力が強まる局面ほど、この戦略の相対的な価値は高まる。**問い:あなたの「貫ける好き」を、今日の仕事のどこに、一滴だけ、落とせるか。** ### 実務への含意 - 職業上の規範に従うことと、自分の「貫ける好き」を隠すことは、別の判断である。規範は守ってよいが、隠す必要はない。 - 副業やニュースレターは、「好き」を試験的に外に出すための低リスクな装置である。匿名で始め、反応を見てから実名に切り替える順序でも構わない。 - 若手に「もっと個性を出せ」と迫る前に、管理職自身が何を貫いているかを一行で書き出してみる。管理職が個性を示さない組織では、若手も示さない。 ### 参考文献 - 『ストーリーとしての競争戦略 優れた戦略の条件』楠木建(東洋経済新報社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492532706?tag=digitaro0d-22) - 『LIFE SHIFT(ライフ・シフト) 100年時代の人生戦略』リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット(東洋経済新報社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492533877?tag=digitaro0d-22) - 『エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする』グレッグ・マキューン(かんき出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4761270438?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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