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ショートストーリー

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謝らない人

広報部の主任・三島奈央は、自分が出した社内報の誤記について、月曜の朝から対応に追われていた。  取引先の社名を一文字間違えた。それだけのことだった。気づいたのは金曜の夕方で、すでに全社員のメールボックスに配信済みだった。週末のうちに修正版を用意し、月曜朝いちばんで訂正メールを出した。同時に、該当の取引先にも電話を入れた。先方の総務担当者は「ああ、気にしてませんよ」と笑ってくれた。  それで終わるはずだった。  ところが、社内SNSが騒がしくなった。営業部の若手・片桐が「広報のチェック体制どうなってるんですか? 取引先の信用にかかわりますよ」と投稿したのが発端だった。普段は十件もコメントがつかない社内SNSに、半日で四十を超える反応が集まった。 「基本中の基本ができていない」「誰が最終チェックしたのか明確にすべき」「再発防止策は?」  三島は画面を見ながら、奇妙な感覚に襲われた。取引先はもう気にしていないのに、社内の人間が怒っている。しかもその大半は、取引先と直接やり取りしたこともない人たちだった。  昼過ぎ、上司の園田部長が三島のデスクに来た。 「三島、社内SNSに謝罪文を出してくれないか」 「取引先にはもうお詫びして、先方も了承いただいていますが」 「わかってる。でも社内が収まらないだろう」  三島は一瞬、何を言われているのか理解できなかった。迷惑をかけた相手には謝った。相手も許してくれた。なのに、迷惑を受けていない人たちに向けて、もう一度謝れと言われている。 「それ、誰に対する謝罪になるんですか」  園田部長は少し困った顔をした。 「まあ、組織としてのケジメだよ」  三島は黙って頷いた。そして十五分で謝罪文を書き、社内SNSに投稿した。反省と再発防止策を丁寧に並べた、隙のない文章だった。  投稿した瞬間、「いいね」が次々についた。「誠実な対応ですね」「今後に期待します」。三島はそれを見て、自分でも説明できない空虚さを感じた。  翌日、経営企画部の若林が三島に声をかけてきた。社内では「冷静な論客」として知られている人物だった。 「三島さん、昨日の対応、見事だったね。ああいうときに素早く動けるかどうかで、広報の力量が出る」 「ありがとうございます」 「片桐くんの指摘も、まあ正論ではあるけど、少し言い方がきつかったね。ただ、ああいう声が上がること自体は健全な組織の証拠だと思うよ」  若林は穏やかに微笑み、自席に戻っていった。三島はその背中を見ながら思った。若林さんは何をしたんだろう。批判した片桐を穏やかにたしなめ、三島を褒め、組織論まで語った。きれいにまとまっている。でも結局、若林さんも取引先には何の関係もない人だ。  その日の夕方、三島は取引先への月次レポートを仕上げていた。ふと、金曜日に電話をくれた総務担当の言葉を思い出した。「気にしてませんよ」。あの一言だけが、この数日間で唯一、問題の当事者から発せられた言葉だった。  社内SNSを開くと、片桐の最初の投稿にはもう六十三の「いいね」がついていた。三島の謝罪文には五十一。若林の「健全な組織」コメントには三十八。数字だけ見れば、組織は活発に機能しているように見える。  三島はパソコンを閉じた。  全員が何かを言い、全員が何かに反応し、全員が自分の役割を演じきった。批判する人、謝る人、仲裁する人、論評する人。舞台の配役は完璧だった。  ただ、取引先の総務担当だけが、この舞台に一度も登場しなかった。そしておそらく、この舞台が上演されていたことすら知らない。  帰り際、エレベーターで園田部長と一緒になった。 「三島、今回はうまく収めてくれたな」 「はい。ただ、少し考えたんですが」 「なんだ?」 「私たちは結局、誰に謝ったんでしょうね」  園田部長は何か言いかけて、口を閉じた。エレベーターが一階に着き、ドアが開いた。二人とも、何も言わずに外に出た。  夜のオフィス街を歩きながら、三島は思った。あの社内SNSの投稿を全部削除しても、何も変わらない。取引先はとっくに許してくれているし、社名の誤記はもう修正されている。残っているのは、六十三と五十一と三十八の数字だけだ。  それは誰のためのものでもなかった。

論考

縦書き

当事者なき舞台――なぜ私たちは「ポジション取り」をやめられないのか

### 序:宛先のない謝罪 ある人が失敗する。すると周囲が反応する。批判する者、擁護する者、分析する者、仲裁する者。全員が持ち場につき、それぞれの役割を演じきる。ところが、よく見ると肝心の当事者――つまり実際に迷惑を被った側――がどこにもいない。この構図は、現代の組織やビジネスシーンにおいて驚くほど頻繁に出現する。 会議で問題が報告されると、原因究明よりも先に「誰が責任を取るか」のポジション争いが始まる。顧客のクレームよりも、社内での評価や立場の保全が優先される。問いはこうだ。「私たちは本当に問題を解決しようとしているのか、それとも問題を消費しているだけなのか?」 ### 展開:ラベルが思考を代替する この現象の根底にあるのは、ラベルへの過度な依存である。肩書き、ブランド、実績、所属――こうした記号が個人の思考を代替し、物事の中身を見る前にラベルで判断する習慣が定着している。 ビジネスの世界では、「大手出身」「MBA取得」「海外経験あり」といったラベルが、実際の能力よりも先に人を規定する。ある提案が評価される理由が、提案の中身ではなく提案者の肩書きであることは珍しくない。逆に、優れた提案が無名の人間から出されたとき、正当に評価されないことも多い。 問題は、ラベルで評価する側もラベルで評価される側も、この構造に慣れきっていることだ。ラベルを獲得すること自体が目的化し、ラベルの中身を充実させることが後回しになる。検証すべき問いはこうだ。「あなたの組織では、提案の採否は提案者の肩書きとどの程度相関しているか?」 ### 反証:自己責任論との混同を避ける ここで一つ重要な区別がある。「自分の人生を生きていないから振り回される」という指摘は、自己責任論と混同されやすい。しかし両者は本質的に異なる。 自己責任論は「結果の帰属」の問題である。つまり、社会システムの中で生じた結果を個人に帰責する議論だ。一方、主体性の不在は「存在の在り方」の問題である。結果の良し悪しではなく、そもそも自分の判断と意志で動いているかという、より根源的な問いかけだ。 自己責任論を振りかざす人間も、それに苦しむ人間も、ともに同じ病理の症状を示している場合がある。他者を裁くことで、あるいは社会に裁かれることで、ようやく自分の輪郭を確認できる――この状態は、主体の不在そのものだ。「あなたは他者の評価がなくても、自分の仕事の価値を説明できるか?」 ### 再構成:空洞な舞台の成立条件 当事者のいない舞台が成立する条件は三つある。 第一に、反応の連鎖を促す仕組みがあること。社内SNS、会議、報告書――あらゆる場面で「反応すること」が求められる環境では、反応そのものが目的化しやすい。 第二に、ラベルによる思考の省略が常態化していること。肩書きや前例で判断し、中身を精査しない習慣が根づいている組織では、誰も「そもそもこの議論は必要か」と問わない。 第三に、そして最も根本的なこととして、参加者の大半が自分の軸を持っていないこと。自分が何を大切にし、何のために働いているかが曖昧な人間は、他者の失敗や成功に過剰に反応することで、自分の存在感を確認しようとする。 この三条件が揃うと、組織は活発に見える。数字の上では議論が活性化し、コミュニケーションが増え、問題への感度が高まったように見える。しかし実態は、誰も問題の本質に触れていない空回りだ。「あなたの組織で最後に『この議論は不要だ』と言った人はいるか?」 ### 示唆:自分の仕事に戻る 結局のところ、当事者なき舞台から降りる方法は一つしかない。自分の仕事に戻ることだ。 これは「無関心であれ」という意味ではない。他者の失敗から学ぶことは価値がある。しかし、学ぶことと、それを材料にしてポジション表明することは全く別の行為だ。前者は自分の成長につながり、後者は承認欲求の消費にしかならない。 組織の中で本当に機能している人間は、他者の問題に口を挟む暇がないほど、自分の仕事に没頭している。逆説的だが、「何も言わない人」が最も仕事をしていることは多い。 #### 実務への含意 - 社内で問題が共有された際、最初に「当事者は誰か」「当事者は何を求めているか」を確認する習慣をつけること。当事者不在の議論は、どれだけ活発でも価値を生まない - 人材評価において、ラベル(経歴・肩書き)とアウトプット(実際の成果物)を意識的に分離して判断すること。ラベルが判断を歪める場面を記録するだけでも、思考の精度は上がる - 「反応しない」という選択肢を組織文化に組み込むこと。全ての案件にコメントや意見表明を求める仕組みは、空洞な舞台を量産する温床になる ### 参考文献 - 『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478025819?tag=digitaro0d-22) - 『スマホ脳』アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳(新潮新書)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4106108828?tag=digitaro0d-22) - 『「承認欲求」の呪縛』太田肇(新潮新書)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4106108003?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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