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ショートストーリー

縦書き

声の重さ

システム開発会社ネクストウェーブで、チームリーダーの黒田俊一は六人のエンジニアを率いていた。その中で最も頼りにしていたのが、入社五年目の園田健太だった。 園田は口数こそ少ないが、納期前のトラブルでも黙々とコードを書き続け、チームを何度も救ってきた。黒田にとって園田は「放っておいても大丈夫な人間」だった。 異変に気づいたのは、大型案件の佳境に入った頃だ。 園田の提出するコードにミスが目立つようになった。会議中にぼんやりしていることが増え、昼食も取らずにデスクに座ったままの日が続いた。ある朝、園田がモニターの前で十分以上動かなかった。画面には白紙のエディタが開いたままだった。 黒田は園田をミーティングルームに呼んだ。 「園田、最近どうした。らしくないぞ」 園田は少し間を置いてから言った。 「すみません。頭がうまく動かなくて。画面を見ていても、何を書けばいいか分からなくなることがあります」 黒田は内心、焦った。納期まであと三週間。園田が抜けたらチームは回らない。 「まあ、誰だってそういう時期はあるよ。俺も若い頃、三ヶ月くらい寝れない時があったけど、気合いで乗り切った。お前も踏ん張りどころだと思って頑張れよ。終わったらちゃんと休みを取らせるから」 黒田は園田の肩を叩いた。励ましたつもりだった。 園田はうなずいた。それから三週間、園田は休まなかった。納期には間に合った。チームは黒田の指揮のもと、打ち上げで盛り上がった。園田は打ち上げには来なかった。 翌週の月曜日、園田は出社しなかった。 連絡がつかないまま三日が過ぎ、黒田が園田の自宅を訪ねると、カーテンが閉め切られた部屋の中で園田は布団に横たわっていた。声をかけても反応が薄い。台所には手つかずのコンビニ弁当が並んでいた。 「園田、病院に行こう」 園田は首を横に振った。 「行ったら、もう戻れない気がするんです」 黒田はその言葉の意味がすぐには分からなかった。だが、園田の目を見て、これは自分がどうにかできる範囲の話ではないと気づいた。 産業医に連絡を取り、園田は休職に入った。診断はうつ病だった。 黒田は人事部の土井から呼び出された。 「黒田さん、園田さんとの面談記録を確認しました。クリニックの受診を勧めるべきタイミングで、『気合いで乗り切れ』という趣旨の発言をしていますね」 「励ましたつもりだったんです」 「本人にはそう伝わっていません。『休むなと言われた』と受け止めています」 黒田は言葉を失った。 土井は続けた。「管理職研修でもお伝えしていますが、部下が心身の不調を訴えた場合、最初にすべきことは専門家につなぐことです。励ますことでも、自分の経験を語ることでもありません」 黒田はその夜、一人でオフィスに残った。園田のデスクはそのままだった。マグカップが一つ、モニターの横に置かれていた。黒田は自分の言葉を思い返した。あの時、肩を叩いた手の感触が残っていた。あれは励ましではなかった。逃げ道をふさいだのだ。 園田の休職は半年を超えた。復職の見通しは立たなかった。 黒田は月に一度、園田の実家に手紙を書くことにした。仕事の話は書かなかった。近所に新しくできたラーメン屋の話や、チームのメンバーがマラソン大会で完走した話を書いた。返事は来なかった。 八ヶ月目に、封筒が届いた。中には一枚の便箋があった。 「黒田さん、手紙をありがとうございます。ラーメン屋、退院したら行ってみたいです」 たった二行だった。だが、黒田は便箋を持つ手が震えるのを感じた。 翌月、黒田は社内のメンタルヘルス研修に自ら参加を申し出た。講師が参加者に問いかけた。 「部下が『つらい』と言った時、皆さんは最初に何をしますか」 黒田は答えなかった。代わりに、便箋の二行を思い出していた。 言葉は、発した側が思うよりずっと重い。そしてその重さに気づくのは、たいてい手遅れになってからだ。

論考

縦書き

言葉が人を壊すとき――管理職の無自覚な一言と、回復への長い道のり

**序** 管理職の何気ない一言が、部下のキャリアと人生を不可逆的に破壊することがある。本人に悪意はない。むしろ励ましのつもりであることが多い。「俺も昔はもっと大変だった」「みんな頑張っている」――こうした言葉が、心身の不調を訴えた部下にとって「弱音を許さない」というメッセージとして機能し、適切な対処を遅らせる。言葉の重さに無自覚な管理職がいる組織では、人が静かに壊れていく。 *問い:管理職がメンタルヘルス研修を受けた組織とそうでない組織で、部下の休職期間の長さや復職率にどのような差が生じるか。* **展開** 問題の構造は単純である。部下が不調を訴えた時、管理職がすべきことは「傾聴」と「専門家への接続」の二つだけだ。自分の経験を語ることでも、チームの状況を説明することでも、ましてや「頑張れ」と発破をかけることでもない。しかし実際には、多くの管理職がこの二つをできない。理由は二つある。一つは、メンタルヘルスに関する知識が不足していること。もう一つは、チームの戦力確保という短期的な利害が、部下の健康という長期的な価値に優先してしまうことである。心理的安全性の研究が示すように、「弱さを見せても安全だ」と感じられない職場では、人は不調を隠す。隠した結果、問題は深刻化し、最終的により大きなコストとなって組織に返ってくる。 *問い:部下が心身の不調を上司に最初に相談してから、実際に専門家の支援を受けるまでの平均日数はどの程度か。* **反証** もちろん、管理職を一方的に責めるのは公平ではない。多くの管理職自身もまた過剰な業務負荷の中にあり、部下のケアに割く余裕がないのが実情である。また、「励ます」という行為自体が悪いわけではない。問題は、励ましが「相手の状態を見極めたうえでの判断」ではなく、「自分の不安を解消するための反射的行動」になっていることにある。部下が抜けたらチームが回らないという焦りが、「休むな」という圧力に変わる。これは個人の資質の問題ではなく、組織の構造的問題である。 *問い:管理職一人あたりの部下の人数と、部下のメンタル不調の発生率の間にはどのような相関があるか。* **再構成** 注目すべきは、破壊と回復の非対称性である。キャリアと生活を壊すのは一言で足りるが、回復には年単位の時間がかかる。しかも回復は直線的ではない。一進一退を繰り返しながら、ある日突然、小さな転換点が訪れる。それは大きな出来事ではなく、「もう一度誰かと話してみよう」という些細な意思である場合が多い。この小さな意思を支えるのは、制度でも論理でもなく、「待っている人がいる」という感覚である。管理職が果たすべき最も重要な役割は、問題が起きた後の対処ではなく、問題が起きる前に「この職場では弱さを見せても大丈夫だ」という空気を作っておくことにある。 *問い:休職者が復職を決意する際、最も大きな影響を与えた要因は何か(制度的支援、人間関係、経済的要因など)。* **示唆** 管理職の言葉は、発した側が思うよりずっと重い。一言が人を壊し、一通の手紙が人を救うこともある。言葉の重さに自覚的であることは、管理職の技術であると同時に、組織文化の問題である。 **実務への含意** - **「最初の一手」の標準化**:部下が心身の不調を訴えた場合、管理職が最初にすべき行動(傾聴→専門家への接続)をマニュアル化し、研修で反復訓練すること - **管理職の負荷管理**:管理職一人あたりの部下の人数に上限を設け、ケアに割く時間的余裕を構造的に確保すること - **回復者との接点維持**:休職中の部下に対して、業務連絡ではなく人間的なつながりを維持する仕組み(定期的な近況報告の手紙など)を推奨すること ### 参考文献 - 『心理的安全性のつくりかた』石井遼介(日本能率協会マネジメントセンター)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4820728245?tag=digitaro0d-22) - 『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478025819?tag=digitaro0d-22) - 『恐れのない組織』エイミー・C・エドモンドソン(英治出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4862762883?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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