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ショートストーリー
谷底の営業部長
営業第三部の部長・宮本隆司は、自席のパソコン画面を見つめたまま動けなくなっていた。
午前中に人事部長から告げられた内容が、まだ頭の中で反響している。「来期の組織改編で、営業第三部は統合対象です。宮本さんには関連会社への出向を打診したい」
五十二歳。入社三十年。気づけば、会社に必要とされない人間になっていた。
帰宅すると、妻の靴がなかった。テーブルの上に封筒が一通。中身を読まなくても、内容は想像がついた。ここ数年、仕事を言い訳に家庭を顧みなかった報いだ。
翌朝、宮本は出社できなかった。布団の中で天井を見つめていると、電話が鳴った。
「宮本部長、大丈夫ですか」
営業第三部の若手、佐々木からだった。
「ああ、少し体調を崩してね」
「無理しないでください。でも、部長がいないと、みんな不安なんです」
電話を切った後、宮本は再び天井を見つめた。自分がいなくても会社は回る。そう思っていた。だが、不安だと言った佐々木の声は、確かに震えていた。
三日後、宮本は出社した。
フロアに入ると、営業第三部の席だけが妙に静かだった。佐々木が駆け寄ってきた。
「部長、実は昨日、山岡さんが辞めるって言い出して」
山岡は部のエース格だ。話を聞くと、統合の話を聞いて将来に不安を感じたらしい。
宮本は山岡を会議室に呼んだ。
「辞めるのは自由だ。でも、なぜ今なんだ」
山岡は少し間を置いて言った。
「正直に言います。この部署にいても先がないと思ったからです。部長だって、出向になるんでしょう」
「そうだ」
「だったら、私が残る意味がありません」
宮本は窓の外を見た。曇り空の下、ビル群が灰色に沈んでいる。
「山岡、おれはこの三十年で何度もどん底を経験した。入社五年目で大型案件を失注してクライアントに土下座したこともある。十年前には業績不振で部下を何人もリストラした。おれ自身が辞表を書いたことも一度じゃない」
山岡は黙って聞いていた。
「そのたびに思ったよ。もう終わりだって。でもな、不思議なことに、本当のどん底にいるときは、悩む暇すらなかった。必死にもがいていたら、いつの間にか次の日が来てた」
「でも、今回は違うでしょう。会社が決めたことです」
「会社が決めたことは変えられないかもしれない。でも、自分がどうするかは自分で決められる」
宮本は山岡の目を見た。
「おれは出向を受け入れる。でも、それで終わりじゃない。そこで何ができるか、また考えるさ。お前も辞めたきゃ辞めればいい。でも、逃げるために辞めるのか、次に向かうために辞めるのか、それだけははっきりさせろ」
山岡は何も言わなかった。だが、その目には、朝とは違う色があった。
一週間後、山岡は退職届を撤回した。
「もう少しだけ、ここでやってみます」と、彼は言った。
宮本は頷いた。自分の言葉が届いたのかどうかは分からない。ただ、自分自身が久しぶりに、もがく意味を思い出していた。
人事部長との面談で、宮本は言った。
「出向、受けます。ただ、一つだけ。営業第三部の若手を何人か、新しい部署に連れていかせてください」
人事部長は少し驚いた顔をしたが、やがて頷いた。
窓の外に日が差していた。谷底から見上げる空は、意外なほど広かった。
論考
悩める余裕が示す生命力——逆境を乗り越える心理学的メカニズム
### 序
「悩める」という状態は、しばしば弱さの表れと見なされる。だが、悩む能力こそが、人間の生命力の証左なのではないか。極限状態に置かれた人間は、悩む暇すらなく、ただ生存のために動く。悩むことができるのは、まだ選択肢が残されている証拠であり、再起の可能性が存在する証である。この逆説的な視点から、逆境を乗り越える力について考察する。
**検証可能な問い:悩みの深さと、実際の危機の深刻度は、どのような相関関係にあるのか。**
### 展開
心理学において「レジリエンス」と呼ばれる概念がある。これは逆境から回復する力を指すが、興味深いのは、レジリエンスが高い人ほど過去に困難を経験していることが多い点だ。いわば「絶望への免疫」のようなものが形成されるのである。
※Mark Seery et al. (2010)の有名な研究では、「一生のうちに2-6回程度の重大な逆境を経験した人」が最もレジリエンスが高く、それ以上でも以下でも低くなることが示されています。
職場での挫折を例にとろう。リストラ宣告を受けた人は、最初は強い絶望を感じる。しかし、その絶望と向き合い、もがき続ける中で、徐々に次の一手を見出す力が湧いてくる。逆に、常に順風満帆だった人は、初めての挫折で立ち直れなくなることがある。苦難の経験値が、次の危機への耐性を高めるのだ。
**検証可能な問い:過去の挫折経験の数と、現在のストレス耐性には、どのような関係があるか。**
### 反証
ただし、この「絶望への免疫」論には限界がある。早期の絶望体験が、逆にトラウマとなり、慢性的な心理的脆弱性を生む可能性も否定できない。また、「悩めるのは余裕がある証拠」という見方は、精神的苦痛の深刻さを軽視するリスクを孕む。うつ状態にある人に「まだ余裕があるから悩めるのだ」と言えば、それは暴力的な言葉になりかねない。
重要なのは、苦難の経験を「意味づける」プロセスである。同じ経験をしても、それを成長の糧と捉えられる人と、単なる傷として抱え続ける人がいる。違いを生むのは、経験そのものではなく、経験への向き合い方だ。
**検証可能な問い:トラウマと成長の分岐点となる要因は何か。**
### 再構成
人間の本質は孤独である、という見方がある。生まれる時も死ぬ時も、究極的には一人だ。しかし、この孤独を否定するのではなく、認めることで、逆に他者との深いつながりが生まれる。「自分は不完全で、一人では生きられない」という認識が、他者への開かれた姿勢を生むのである。
逆境において最も危険なのは、孤立することだ。だが、孤独を認めた上で助けを求めることと、孤独を否定して一人で抱え込むことは、全く異なる。前者は他者とつながるための行動であり、後者は断絶への道である。
レジリエンスの核心は、「あがき続ける力」にある。それは派手なヒーロー的行動ではない。ただ、次の日を迎え、一歩だけ前に進むこと。その小さな積み重ねが、やがて谷底からの脱出につながる。
**検証可能な問い:孤独の自覚と対人関係の質は、どのように関連するか。**
### 示唆
逆境を乗り越える力は、特別な才能ではない。それは、悩み、もがき、時に助けを求めながら、一日一日を生き延びる中で培われる普遍的な能力である。そして、今まさに谷底にいる人は、そこから見上げる空が、意外なほど広いことにいつか気づくだろう。
**検証可能な問い:「小さな一歩」の積み重ねは、長期的な回復にどう寄与するか。**
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### 実務への含意
- **挫折経験を「失敗」ではなく「免疫獲得」として組織的に位置づける**——新人研修や評価制度において、過去の困難経験とその乗り越え方を肯定的に扱う枠組みを設ける
- **孤立を防ぐ仕組みを制度化する**——メンター制度や定期的な1on1など、SOSを出しやすい環境を構築する
- **「悩む余裕」を奪わない業務設計を心がける**——常に余裕のない状態が続くと、問題に気づく能力自体が低下する
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### 参考文献
- 『世界のエリートがIQ・学歴よりも重視!「レジリエンス」の鍛え方』久世浩司(実業之日本社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/440845494X?tag=digitaro0d-22)
- 『OPTION B(オプションB)逆境、レジリエンス、そして喜び』シェリル・サンドバーグ、アダム・グラント(日本経済新聞出版社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/453232159X?tag=digitaro0d-22)
- 『自分の中に毒を持て』岡本太郎(青春出版社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4413096843?tag=digitaro0d-22)
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