ショートストーリー
向かいの席
論考
止めた人を、規範にしない――負の連鎖と「誰が背負うのか」という問い
序:痛みは、いちばん近くにいる人へ流れる
職場には、上司から受けた扱いをそのまま部下に向けてしまう人がいる。過干渉、囲い込み、他部署との関係の遮断。外から見れば明らかに害だが、本人は「守っている」と信じていることが多い。そしてその行動の根には、本人がかつて我慢を強いられ、居場所を一つしか持てなかった経験があることが少なくない。
問い:あなたの職場で「過干渉な上司」とされる人は、かつてどんな上司の下で働いていたか。
展開:加害者にも理由がある、しかし受け手に責任はない
ここで二つの事実が同時に成り立つ。一つは、過干渉な人もまた、環境によってそうなったということ。もう一つは、それでもその影響を受ける部下が苦しむ筋合いはないということ。前者だけを見れば「許してあげよう」になり、後者だけを見れば「切り捨てればいい」になる。どちらも現実の半分しか見ていない。
厄介なのは、受け手が罪悪感を抱えやすいことだ。離れたことで相手が崩れると、「自分のせいだ」と思い込む。しかし相手の崩れは、何十年もかけて積み上がったものの結果であり、最後に離れた一人の責任ではない。
問い:部下が異動・退職したあとに上司が不調を来したとき、組織はその原因を誰に帰属させているか。
反証:では、誰かが救えばいいのではないか
当然、「周囲が支えればいい」という意見がある。だが周囲とは誰か。受け手の新しい上司は、受け手に寄り添うことはできても、その前の上司の数十年分の重荷を引き受ける義理はない。負担も大きすぎる。善意で引き受けた人が、今度は次の被害者になることもある。
「誰の不幸が誰に影響するのか」を整理すると、救う責任を自然に負える人が、実はどこにもいないことに気づく。これがこの問題の冷たい核心である。
問い:あなたの組織で、ある人の問題を「善意の誰か」が肩代わりしている例はいくつあるか。
再構成:止めた人はいる。ただし、それは義務ではない
それでも、連鎖を自分のところで止める人はいる。厳しい環境で育ちながら、それを下の世代に渡さなかった人だ。その存在は確かに希望である。
しかし、ここで踏みとどまる必要がある。止められた人を「規範」にした瞬間、止められなかった人は「努力が足りない人」になる。止める力は、その人の気質や、たまたま出会った支えに左右される。等しく求められるものではない。
組織にできるのは、個人の頑張りに賭けるのではなく、居場所を一つに絞らせない仕組み――複数の上司・複数の相談先・定期的な配置換え――を用意することくらいだろう。それも決定打ではない。
問い:あなたの組織では、一人の社員の居場所が一人の上司に依存しない仕組みがあるか。
示唆:結論を急がないことも、一つの誠実さである
この問題に、きれいな解決策はない。だからこそ、「誰かが救うべきだ」と安易に結論づけないことが大事になる。結論を急げば、たいてい一番近くにいる誰かに荷物が押しつけられる。
決定打がないと認めたうえで、自分が受け取ったものを次に渡さないよう、目の前の一回で手を止める。それは誰かに求めることではなく、それぞれが静かに選ぶことである。
問い:あなたが前の上司から受け取った振る舞いのうち、今の部下に渡しているものは何か。
実務への含意
- 過干渉な管理職を評価するときは、その人の育成歴(誰の下で、どんな負荷を負ってきたか)も合わせて見る。ただし、部下への影響の是正を優先する
- 異動・離職のあとに上司が崩れても、離れた部下に責任を負わせない。組織として産業医や代行体制で受け止める
- 「連鎖を止めた人」を美談にせず、一人に居場所を集中させない仕組み(複数の相談先・定期的な配置換え)で連鎖の起点を減らす
参考文献
- 『毒になる親 一生苦しむ子供』スーザン・フォワード著、玉置悟訳(講談社+α文庫)
- 『母という病』岡田尊司(ポプラ社)
- 『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健(ダイヤモンド社)