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ショートストーリー

縦書き

待機席の笑い声

午後九時を回っても、フロアの半分は空席だった。  ラウンジ「ルミエール」の奥、観葉植物の陰にある待機席には、七人のキャストが並んで座っている。七人とも、手元のスマートフォンを見ていた。会話はない。画面の光が、ドレスの胸元を青白く照らしている。  店長の真壁は、その光景をカウンター越しに眺めながら、売上日報の数字を指でなぞった。客足が落ちて半年。オーナーの久我は、待機中の時給を払うのをやめた。接客した時間の分だけ払う。店を残すためだ、と言われれば、真壁に返す言葉はなかった。 「店長、今日もう上がっていいですか」  声をかけてきたのは美月だった。二十四歳。十八でこの店に入り、ほかの職場を知らない。 「五時間いて、ついたのは一卓、十分だけ。それで交通費払って帰るの、ちょっとしんどくて」  美月は笑ってみせたが、目の下の影は化粧では隠れていなかった。先月、昼のコールセンターに面接に行ったらしい、と別のキャストから聞いていた。  翌週の経営会議で、真壁は一枚の紙を出した。 「待機席に、人を一人置かせてください」  久我は眉を上げた。「人?」 「話の上手な人です。待機中のキャストと、雑談をしてもらう。恋愛でも、化粧品でも、何でもいい。盛り上げ役です」 「金を払っていない時間に、金を払う人間を置くのか」 「払っていないから、です」真壁は言った。「待機の時間は、うちの帳簿に載っていません。載っていないから、誰も無駄だと思っていない。でも、あの席で失われているものは、全部キャストが払っています。時給も、気力も」  久我は腕を組んだ。「待機の子は、客から見えないほうがいい。暇な店だと思われる」 「暇に見えるのは、全員が下を向いているからだと思います」  三か月だけ、という条件で許可が出た。  真壁が声をかけたのは、十年前にこの店を辞めた早苗だった。いまは美容専門学校で接客の授業を持っている。  早苗は初日、待機席の真ん中に座ると、自分のスマートフォンを伏せてテーブルに置いた。 「みんなさ、お客さんに言われていちばんうれしかった言葉、ひとつずつ教えて」  最初は誰も答えなかった。二日目には二人が話した。一週間たつと、待機席から笑い声が漏れるようになった。化粧品の話が、いつのまにか「初対面の人に名前を覚えてもらうには」という話になり、美月が手帳を出してメモを取った。 「メモ取るの、昼の仕事みたいでダサくない?」と誰かが笑った。 「ダサくないよ」と早苗は言った。「昼でも夜でも、使えるものは使えるの」  変化は、客席のほうから来た。 「あの奥の席、何がそんなに楽しいの」  常連の男性客が、ボーイを呼び止めて聞いた。真壁は決めていた。待機席のキャストは、いつでも場内指名できる。盛り上がっている輪の中から一人が立ち上がり、客席へ向かう。その背中を、ほかの客が目で追う。  二か月目、場内指名の数は前の年の水準に戻った。三か月目には、それを少し超えた。  約束の三か月がたった日、久我が真壁を呼んだ。 「待機の時給、来月から戻す」  真壁は思わず顔を上げた。 「あの席は、もう待合室じゃない。売場だ」久我は日報を閉じた。「売場に立っている人間に、払わない理由はない」  その夜、帰り支度をしていた美月が、真壁に声をかけた。 「店長。コールセンターの面接、もう一回受けてみようと思います。辞めるためじゃなくて」  美月は手帳を軽く振った。 「こっちでも、向こうでも、ちゃんと人と話せるって、ちょっと分かったので」  待機席には、まだ笑い声が残っていた。誰もスマートフォンを見ていなかった。

論考

縦書き

帳簿に載らない時間は、誰が払っているのか

序:見えない無駄は、削られもしない

組織が無駄を削るとき、手がかりになるのは帳簿である。人件費、在庫、設備の稼働率。数字になっているものは改善の対象になる。逆に言えば、数字にならないものは、どれほど大きくても議論の机に上がらない。

接客業の「待機時間」はその典型だ。客がつくまで給与を払わない仕組みにすれば、経営側から見た待機のコストはゼロになる。だが、コストが消えたわけではない。時間、交通費、そして「呼ばれない」ことによる消耗は、そのまま働き手の側に移っている。

問い:自社で「払っていないからコストではない」と扱っている時間は、誰が、何で払っているか。

展開:待合室を売場に変える

待機時間の価値を変える方法は、時給を戻すことだけではない。その場の性質を変えることもできる。

たとえば、待機する人たちの輪に、話し上手な進行役を一人置く。雑談を通じて、言葉の選び方や相手の名前の覚え方といった、どの職場でも使える技能を交換させる。輪が活気づけば、客の目はそこへ向く。人は、楽しそうにしている集団に関心を持つ。その場から誰でも呼べるようにしておけば、待合室は「見せる売場」に変わる。

ここで起きているのは、遊休資源の転用である。生産の現場で、流れの止まった工程を見つけ出し、滞留を価値の流れに変えるのと同じ発想だ。

問い:自社の「待ち時間」を顧客から見える場所に置いたら、何が起きるか。

反証:見せることの危うさ

もちろん、この方法には限界がある。

まず、待機の様子を見せることが格を下げる業態もある。舞台裏を見せないこと自体が価値になっている場合だ。次に、成果が進行役の力量に大きく左右される。場を仕切れない人を置けば、気まずさが増えるだけだ。さらに、待機中に学びや進行役を用意すれば、その時間は「指示の下にある時間」としての性格を強める。無給のまま続ければ、労務上の問題をかえってはっきりさせてしまう。

問い:その場を見せることで、失われる価値は何か。

再構成:払う理由が見えるようにする

反証を踏まえると、この方法の本当の効能は、売上の増加そのものよりも、「待機時間が価値を生んでいる」ことを経営側に見えるようにする点にある。

価値が見えれば、払う理由も見える。払っていなかった時間に再び対価を払うのは、温情ではなく、売場に立つ人への正当な支払いになる。働き手の側でも、待機が「呼ばれるのを待つだけの時間」から「技能を磨く時間」に変わる。一つの職場しか知らない人にとっては、別の職場でも通用するという手応えを得る入口にもなる。

問い:その時間の対価を戻したとき、損益はどう動くか。

示唆:コストの持ち主を確かめる

無駄が見えないのは、経営者が鈍いからではない。無駄の請求書が、別の人の手元に届いているからだ。改善の第一歩は、帳簿に載らない時間を数え直し、そのコストを誰が持っているかを確かめることにある。

問い:働き手に移したコストを自社に戻して数えたら、いくらになるか。

実務への含意

  • 無給・未計上の時間を洗い出し、働き手の側で生じているコスト(時間・交通費・消耗)を一度金額にしてみる
  • 待ち時間を顧客から見える場に変えられないかを検討し、見せることで失う価値と得る価値を比べる
  • 待機中に学びや進行役を設けるなら、対価の扱いを先に決める(無給のまま「指示の下の時間」を増やさない)

参考文献

  • 『ザ・ゴール』エリヤフ・ゴールドラット(ダイヤモンド社)
  • 『影響力の武器』ロバート・B・チャルディーニ(誠信書房)
  • 『ファシリテーション入門』堀公俊(日経文庫)

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