アイキャッチ画像

アイキャッチ画像

ショートストーリー

縦書き

名前のない矢

新ブランド「ひとひら」の発表会まで、あと七十日だった。 岬ハウスウェアは社員二百人ほどの生活用品メーカーだ。原材料の高騰と急な需要の冷え込みが重なり、この一年で工場のラインを二つ止めた。そんな時期に、会社は創業以来もっとも大きな新ブランドを立ち上げようとしている。 その顔になったのが、入社六年目のデザイナー、相良結衣だった。社内報の表紙、取引先向けの動画、公式アカウントの投稿。「ひとひら」を語る役目は、いつのまにか全部彼女のところに集まっていた。断る理由は思いつかなかった。自分が線を引いた製品だ。売りたかった。 矢が飛んできたのは、動画が社外に公開された週からだった。 社内の匿名意見箱に、彼女あての投稿が並んだ。〈ラインを止めておいて新ブランドですか。相良さんから中止を言ってください〉〈現場が減らされているのに、あなたは表に出て笑っている〉〈あなたが降りれば止まります〉。会社のアカウントにも、名前もアイコンもない相手から同じ言葉が届いた。応援のほうがずっと多かったが、目に残るのはいつも少ないほうだった。 結衣は一つひとつ読んだ。読んでしまう性分だった。 「見るな」と課長の沢渡は言った。「気にせず作れ。それが仕事だ」 「無視はできません」と結衣は答えた。「言っていることは、たぶん間違っていない。工場のことを考えたら、この時期に出すのが正しいのか、私にも分からない」 「じゃあ、お前が決めるのか」 「……決められません」 「そうだ」沢渡は言った。「決められない人間が謝るのは、いちばん質が悪い」 その言い方に、結衣ははじめて腹が立った。「じゃあ、誰が決めたんですか。私、一度も聞いたことがありません」 沢渡は答えなかった。答えられない、という顔だった。 発表会の予算と時期を決めたのは、三月の経営会議だ。議事録には「役員一同の総意」としか書かれていない。銀行への説明、来期の資金調達、次の社長を誰にするか。そういう話が背景にあることは、部長級ならみな薄々知っていた。だが誰の名前も表には出ていない。表に出ていたのは、結衣の顔と名前だけだった。 翌週、沢渡は常務の部屋に入った。中止の直訴だと思われたが、違った。 「発表会はやってください。ただ、社内向けの案内に、この判断をした人の名前を書いてください。誰が、いつ、何を根拠に決めたのか。それだけです」 「吊るし上げろということか」 「逆です」沢渡は言った。「宛先がないから、いちばん見えるところに刺さるんです。うちのデザイナーは、自分に決められないことまで背負って謝ろうとしている。それを止められるのは、あなたの名前だけです」 常務は長く黙り、それから短く「書く」と言った。 翌月の社内通知には、決定の日付と理由と、三人の役員の名前が並んだ。派手なことは何も起きなかった。匿名の投稿が消えたわけではないし、止めたラインが戻ったわけでもない。ただ、意見箱に届く文面から「相良さん」の四文字が減った。代わりに、決定そのものへの具体的な問いが増えた。答えにくい問いだった。答えにくいということは、届くべきところに届いたということだ。 結衣は一通だけ返事を書いた。〈中止の判断は私にはできません。でも、なぜ出すのかは説明できます〉。そのあとに、ブランドの説明を千字ほど続けた。 発表会の日、彼女は舞台袖で自分の手を見た。線を引く手だ。決める手ではない。それでいいと思えるまでに、七十日かかった。 矢は、誰かが置いた的に向かって飛ぶ。的を置き直す仕事は、たぶん、決めた人にしかできない。

論考

縦書き

批判は、いちばん見える人に刺さる

組織や市場が不安に覆われるとき、批判は決定した者ではなく、最も可視的な実行者に集中する。看板になった人、前線に立つ人、名前と顔が出ている人。彼らはたいてい、批判されている事柄について拒否権を持っていない。これは偶然ではなく、構造の帰結である。あなたの組織に直近半年で寄せられた苦情や批判のうち、決定者の氏名が宛先に含まれていたものは何%か。 理由は三つある。第一に、多くの意思決定が「総意」「経営判断」といった無名の形式で記録され、決定者の名前が残らない。第二に、広報や営業の設計上、外部から見えるのは実行者の顔だけである。第三に、批判する側は、最も反応が返ってきそうな宛先を最短距離で選ぶ。匿名であればコストはほぼゼロで、宛先の適切さを吟味する動機も働かない。結果として、権限の最も小さい人に、最も大きな圧力がかかる。直近の主要な意思決定について、決定者名・決定日・判断根拠を五分以内に取り出せるだろうか。 とはいえ、実行者は無関係な被害者だ、と言い切るのは乱暴である。看板を背負って便益を受けている以上、説明を求められるのは自然なことだ。また、決定者の名前を常に明示すれば、責任を負いたくない管理職が挑戦的な判断を避け、意思決定が遅く小さくなる危険もある。透明性は無料ではない。決定者名を開示している部門と、していない部門とで、意思決定の速度や失敗の頻度に実際の差はあるだろうか。 そこで、責任を一枚岩として扱うのをやめ、三つに分けて考えたい。決定責任、実行責任、説明責任である。混乱の多くは、この三つを同じ人に押しつけることから生じる。実行者が負うべきは実行責任だけであり、「なぜやるのか」を語る説明責任は決定した者に属する。実行者に説明責任まで負わせた瞬間、その人は自分に変更できないことについて謝るしかなくなり、批判は解決に向かわず消耗だけを残す。あなたの組織で実行者が矢面に立った案件のうち、決定者が同席したのは何割か。 批判は本来、情報である。宛先が正しければ改善に変わり、間違っていれば人を削るだけで終わる。必要なのは個人の耐性を上げることではなく、矢の飛ぶ先を設計し直すことだ。的が置かれた場所は、置いた側にしか動かせない。批判が集中している人物と、その件について決定権を持つ人物を並べて書き出したとき、二つの名前は一致しているだろうか。 **実務への含意** - 重要な意思決定は、決定者名・決定日・判断根拠をセットで社内に記録し、参照できる状態にする。「総意」で終わらせない。 - 匿名の意見窓口には「誰宛てか」を明示する。宛先が無記名だと、投稿は最も目立つ個人に向かう。 - 実行者が矢面に立つ場面では、決定者を必ず同席させる。実行者に説明責任を代行させない。 ### 参考文献 - 『「空気」の研究』山本七平(文藝春秋)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/416791199X?tag=digitaro0d-22) - 『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』鴻上尚史・佐藤直樹(講談社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4065206626?tag=digitaro0d-22) - 『ネット炎上の研究 誰があおり、どう対処するのか』田中辰雄・山口真一(勁草書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4326504226?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

ハッシュタグ