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ショートストーリー
答えを持たない課長
河内塔子が技術営業二課の課長に就いた朝、机の上には何もなかった。花もカードも、おめでとうの一言も。かわりに、前任者が残した引き継ぎファイルが十七冊、背表紙を揃えて積まれていた。
八人のメンバーは全員が年上の男だった。いちばん若い者でも塔子より四つ上で、最年長の宮下は、彼女が入社した年にはもう主任だった。
——だからこそ、隙を見せてはいけない。
塔子の理想の課長像は明確だった。どんな問いにも即答でき、根拠を並べて他部署をねじ伏せ、迷いなく指示を出す人。就任から半年、全案件の技術仕様を頭に入れ、朝会では要点を三つに整理して話した。会議では誰よりも先に結論を出した。
反応は、なかった。
「わかりました」とだけ返ってくる。質問は出ない。塔子が「何か懸念は」と尋ねると、全員が同じ角度でうなずいた。指示は通っているのに、何ひとつ動いていない感触だけが残った。
三か月目、宮下が担当する案件で見積もりの前提が崩れた。塔子は会議室で経緯を確認し、原因を三点に整理して、再発防止策を指示した。手順として正しかったはずだ。会議のあと、廊下で宮下が言った。
「課長、あれ、全部あとから言えることですよ」
塔子が黙っていると、宮下は続けた。
「俺たちは、正しい人が欲しいわけじゃないんです」
その夜、塔子は自分の課長像を紙に書き出し、上から順に線を引いて消していった。即答できる。ねじ伏せられる。迷わない。——どれも、誰かの役に立った日が一日もなかった。残ったのは白い紙だった。
翌週から、塔子は答えを持つことをやめた。かわりに、いちばん速く返すことにした。メンバーからの相談には、内容がわからなくても十五分以内に何かを返す。「調べます」でもいい。他部署との調整で詰まっている者がいれば、間に入って自分の名前で頭を下げた。昔の提案書のフォルダを開き、使えそうなものを黙って送った。苦手だった雑談も、まず自分の失敗から話すことにした。
半年が過ぎたころ、朝会で初めて質問が出た。宮下からだった。
「課長、これ、無理じゃないですかね」
塔子は素直に「わからない」と答え、二人で三日かけて調べた。案件は、取れた。
個別面談も始めた。月に一度、三十分。最初は何を話せばいいかわからず、天気の話で終わった回もある。あるとき、いちばん無口な若手が「自分は何を期待されているんですか」と聞いてきた。塔子は答えに詰まった。求めているものは頭の中にあったのに、一度も口に出したことがなかったのだ。それ以来、面談のたびに「あなたに期待していること」を一つだけ、言い切る形で伝えるようにした。伝えた分だけ、相手の背筋が伸びるのがわかった。
一年後、技術営業部の部長ポストが空いた。上司は塔子に「挑戦しないか」と言った。塔子は挑戦したいと答え、これまでの数字を揃え、面談の準備をした。二課の実績は部内で一番だった。負ける材料が見当たらなかった。
結果は、別の人だった。営業本部から来た、塔子より三つ若い男だった。
「なんでですか」と、塔子は上司に聞いた。上司は言葉を選んでから答えた。
「選考に出た五人のうち、三人が君を知らなかった」
自分の課では、もう誰も塔子を軽んじない。だが会社という建物の、二階から先に、彼女の名前は届いていなかった。役割の内側で完璧に仕事をすることと、役割の外側に自分がいることは、まったく別のことだったのだ。数字は、その部屋にいない人には届かない。
その週、塔子は社内横断プロジェクトの募集に手を挙げた。畑違いで、面倒で、自分の評価には一円も足されない仕事だった。宮下が席から声をかけた。
「課長、あれ、うちの仕事じゃないですよ」
「うん。だから行くの」
宮下は少し笑って、「じゃあ、留守は預かります」と言った。
塔子は資料を抱えて、まだ誰も自分を知らない階へ向かった。階段は、思っていたより明るかった。
論考
速さで信頼を得て、越境で名前を届ける
新任の管理職が最初につまずくのは、たいてい能力ではない。信頼をどう調達するかという方法の問題である。多くの人は、就任した瞬間に「強い上司」を演じようとする。すべてに答えを持ち、論理で他部署をねじ伏せ、迷いを見せない——そう振る舞えば、部下は従うと考える。だがこれは、権限があれば信頼が付いてくるという古い前提に立っている。役職は指示を届ける権利をくれるが、その指示が実際に動く保証まではくれない。あなたのチームで、指示が「通った」ことと「動いた」ことを、区別して観察したことがあるだろうか。
信頼の初期資本は、正しさではなく有用性から生まれる。部下にとって上司が信頼に値するかどうかの最初の判定基準は、「この人は自分の仕事を前に進めてくれるか」である。正しい分析は、事が終わったあとなら誰にでもできる。一方、詰まっているときに十五分で返ってくる反応、他部署との交渉に自分の名前で入ってくれる行為、黙って渡される過去の資料は、その場でコストを肩代わりしている。上司の価値は判断の精度ではなく、レスポンスの速さと、肩代わりした負荷の総量で測られている。直近一か月、あなたが部下の依頼に返答するまでの平均時間は何時間だったか。
もっとも、有用性だけでは足りない。何でも手伝う上司は、たやすく便利な御用聞きになる。部下の課題を引き取りすぎれば、部下は育たず、上司は消耗し、チームの総産出量はむしろ下がる。ここで欠けているのは期待値である。何を求めているかを言葉にしないまま支援だけを重ねると、支援は好意として消費され、成長には転換されない。とりわけ、遠慮を美徳とする文化のもとでは、部下は自分から「何を期待されているか」を聞かない。あなたは直属の部下一人ひとりに、期待する役割と水準を、この三か月のうちに口頭で言い切っただろうか。
そこで、支援と期待値を対にして運用する形が現実解になる。速く助け、同時に「あなたに求めているのはここだ」と一つに絞って伝える。この二つが揃ったとき、はじめて助けは投資になる。だが、この運用を完成させても、次の壁が待っている。役割の内側で完璧に仕事をすることと、組織の中で自分が可視化されていることは、別の問題だからだ。昇進や大きな機会の決定は、たいてい本人のいない部屋で下される。その部屋に自分の実績を運んでくれるのは数字ではなく、日頃から自分を知っている他部署の人間である。あなたの成果を、あなたがいない場で説明できる人は、部署の外に何人いるか。
したがって、管理職の仕事は二層になる。一層目はチームの内側で、有用性と期待値によって信頼を積むこと。二層目は役割の外側で、評価に直結しない越境的な仕事を引き受け、自分と自分のチームの存在を、意思決定の場に届く形にしておくことだ。後者は短期的には損に見える。だが同じ場所で同じ成果を出し続けることは、周囲が動く限り、相対的な後退を意味する。この一年で、自分の評価に加算されない仕事をいくつ引き受けただろうか。
**実務への含意**
- 就任直後は「正しい判断」よりも「速い応答」に資源を配分する。相談への初回返信を当日中に固定し、内容が未確定でも状態を返す。
- 個別面談では、支援の提供と同時に「あなたに期待する一点」を毎回言い切る。支援だけでは好意で終わり、期待値だけでは圧力で終わる。
- 半期に一度は、評価に直結しない部門横断の仕事を一つ引き受ける。目的は成果ではなく、自分とチームの名前を他部署の意思決定者の語彙に入れることである。
### 参考文献
- 『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』宇田川元一(NewsPicksパブリッシング)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4910063013?tag=digitaro0d-22)
- 『GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代』アダム・グラント(三笠書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4837957463?tag=digitaro0d-22)
- 『HIGH OUTPUT MANAGEMENT 人を育て、成果を最大にするマネジメント』アンドリュー・S・グローブ(日経BP)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4822255018?tag=digitaro0d-22)
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