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ショートストーリー
社外の椅子
湊川テクノの資材調達部で、立花孝一は「話が早い男」で通っていた。四十八歳、入社二十六年。設計が無理を言えば協力工場に頭を下げ、経理が渋れば会議の前に廊下で片をつける。社内の誰と誰がどんな貸し借りを抱えているかを、彼は地図のように把握していた。
その地図が急に色を失ったのは、主力の計測機器事業を縮小するという通達が回った朝だった。需要の構造が数年で入れ替わり、会社は残った体力を別の領域に振り向ける決断をした。二つの部門は統合され、四十五歳以上には早期退職の枠が示された。
「立花さんなら、どこでもやっていけますよ」
後輩の宮下が言った。三十五歳。調達の実務なら立花のほうが速いが、この男は妙なところに顔を出す。月に二度は社外の勉強会に出て、休日には他社の若手と物流の研究会をやっている。
「ああいうのは、名刺を配って終わりだろう」
以前、立花はそう言ったことがある。仕事は社内で回る。社外の集まりは、社内で評価されない人間の逃げ場だ——本気でそう思っていた。
通達から二週間、立花は転職サイトに登録した。職務経歴書の入力欄で、手が止まった。「経験した業務」は書ける。二十六年分、いくらでも書ける。だが「あなたの強み」の欄に、書ける言葉がひとつも浮かばなかった。書けたのは、社内でしか意味を持たない固有名詞ばかりだった。
三日後、面談を申し込んだエージェントからの返信は事務的だった。条件を下げても、紹介できる案件は月に一件あるかどうかだという。
「立花さん」
残業の帰り際、宮下が缶コーヒーを二本持って隣に座った。「どの事業領域で、自分のどんな力を使って、これから伸びる市場に置くか。その三つを掛けないと、経歴書はただの年表になりますよ」
立花はむっとした。「俺は二十六年、この会社のために動いてきた。外に顔を売る暇があったら、目の前の仕事を片づけてきた」
「知ってます。だから僕は立花さんに教わってきた」宮下は缶を開けた。「でも、外に自分を置いておくのは、会社への裏切りじゃないですよ。僕は会社の外で恥をかいて、そのぶん中で使える言葉を持って帰ってるだけです」
その夜、立花は自宅のスマートフォンの連絡先を上から順に眺めた。八百件近くあった。社内が六割。残りのほとんどは、名刺交換だけで終わった相手だった。手が止まったのは、七年前の名前だった。佐々木。当時、部品の納期を三度落とした協力工場の担当者だ。社内では「切るべきだ」という声が強かった。立花は切らず、二週間工場に通って、原因が工程ではなく発注側の伝達にあることを一緒に突き止めた。
迷った末、立花は近況を尋ねる短い文面を送った。返信は翌朝に来た。佐々木はその工場を辞め、いまは五人の部材商社を自分でやっている。近く、調達の目利きができる人間を探すつもりだという。
条件は何も書かれていなかった。年収は今より下がるだろうし、話が形になる保証もない。それでも立花は、返信を打つ前に職務経歴書のファイルを開いた。「あなたの強み」の欄に、今度は社名を一度も使わずに書いてみようと思った。
立花は名刺入れを開き、社名の下にある自分の名前を、初めて他人の目で読んだ。
論考
所属は資産ではない——自分の値段を測り直す三つの座標
長く同じ組織にいることは、それ自体では職業的な安全を生まない。むしろ、居心地の良さは自己評価の精度を確実に鈍らせる。社内で通用する信用は、社名という担保の上に成り立っており、担保が外れた瞬間に何が残るかは、外に出るまで誰にも分からないからだ。**あなたが過去三年で受けた相談のうち、社外の人からのものは何件あったか。**
個人の付加価値は、経歴の長さではなく掛け算で決まる。「磨いてきた得意分野」×「その力を発揮してきた事業領域」×「その領域の成長性」——この三つの積が、市場から見た値札になる。人事もやった、企画もやった、という全方位の経歴は、掛け算ではなく足し算にすぎず、足し算は誰とでも取り替えがきく。値札は求人票の年俸レンジという形で公開されているから、自分の売り物が今いくらなのかは、その気になれば一日で調べがつく。**自分の職務経歴書を社外の人に見せたとき、最初に指を差されるのはどの一行か。**
ただし、この主張には反証も要る。社外ネットワークを持てば安全だ、という考えは楽観にすぎる。名刺の枚数もフォロワー数も、目的を共有しない関係は危機の場面で作動しない。むしろ「いざという時に助けてくれる人」を数え始めた時点で、その関係は取引に変質しており、相手にはそれが伝わる。加えて、専門性の多くは特定の組織に深く関与することでしか育たない。外に出る時間は、中で深く掘る時間を確実に削る。**あなたの連絡先リストのうち、この一年であなたの側から何かを差し出した相手は何割か。**
だとすれば、問題は社内志向か社外志向かという二択ではない。分かれ目は、自分の仕事を社外の言葉に翻訳できるかどうかにある。社内でしか通じない固有名詞——制度名、システム名、部署の略称——を一つも使わずに成果を説明できる人は、たとえ社外の知人が少なくても、必要になったときに関係を作れる。逆に翻訳ができない人は、何百人とつながっても自分を売り込めない。社外の縁は、翻訳の訓練の場として機能するから価値があるのであって、名簿そのものが資産なのではない。**自分の仕事の成果を、社名と部署名を一度も使わずに三分で説明できるか。**
実務的な含意はひとつに絞られる。縁も翻訳能力も、蓄積に時間がかかる資産であり、必要になってから作ることができない。事業の縮小や統合は、予兆が見えてから決定までが数週間しかない。その数週間で作れるものは、何もない。**今週、見返りを期待せずに誰かに渡せる情報を、一つ挙げられるか。**
### 実務への含意
- 職務経歴書を、転職の予定がなくても年に一度は自分のために更新する。書けない欄が、そのまま次の一年の課題になる。
- 連絡先を「上位十人・次の三十人・その次の五十人」に分類し、上位層とだけ定期的に情報を往復させる。数ではなく往復の頻度を管理する。
- 経営者・他社の管理職・独立して働く人など、自分と雇用形態の違う相手を意識的に一定数持つ。同じ立場の人ばかりの名簿は、同じタイミングで一斉に困る。
### 参考文献
- 『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)——100年時代の人生戦略』リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット(東洋経済新報社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492533877?tag=digitaro0d-22)
- 『このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法』北野唯我(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478105553?tag=digitaro0d-22)
- 『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』アダム・グラント(三笠書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4837957463?tag=digitaro0d-22)
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