アイキャッチ画像
ショートストーリー
二割の口
沼田健吾は、雑談を在庫だと思っていた。持っていても金にならず、置き場所だけ食う。
業務用厨房機器の商社・西尾テクノに入って七年。担当する既存客は四十社。更新のタイミングは外さないし、見積もりは誰より速い。四半期の数字はいつも中の上。それで十分だと思っていた。
不満があるとすれば、新規開拓の目標が下りてきたことだ。「既存の売上は緩やかに落ちる。三年で二割、外から取ってこい」。部長の言い方は静かだったが、逃げ道はなかった。
沼田は展示会に通い、名刺を配った。三日で二百枚。戻ってから全件にメールを打った。返信は四通、アポになったのは一件、失注。効率が悪い、と沼田は思った。回転率の問題だ。もっと配ればいい。
その秋、久我という五十過ぎの先輩と組まされた。久我の営業は、沼田の目には仕事に見えなかった。納品先の厨房に入ると、まず機械を見ない。洗い場のパートに声をかけ、店長の子どもの受験の話を三十分聞いて帰る。車の中で沼田は聞いた。
「あれ、意味あるんですか」
「意味って」
「今日、注文ゼロですよ」
久我は前を向いたまま言った。「注文の話、俺、何回した?」
「……ゼロです」
「じゃあゼロで正しい」
沼田は黙った。ふざけているとしか思えなかった。自分は数字で評価されている。久我のやり方は、評価されない仕事を評価される時間で買っているだけだ。そう言おうとして、やめた。久我の担当先は、この十年、一件も他社に取られていない。
十一月の展示会。沼田は午前中に八十枚配り、昼に喫煙所脇のベンチで缶コーヒーを開けた。隣に作業着の男が座った。四十半ば、ネクタイはしていない。首から下げた札に、聞いたことのない社名。
反射的に名刺入れへ伸びた手を、沼田は止めた。理由はわからない。ただ、久我の背中が浮かんだ。かわりに、男が抱えている紙袋を見て言った。
「それ、どこかのブースのですか」
「ああ、これ。うちの試作、隅っこに置かせてもらってて」
「試作」
「フライヤーの油、濾すやつです。まあ、誰も見ませんけどね」
沼田は油の濾過装置に一片の興味もなかった。それでも、興味がある人間ならどう聞くだろうと考えて、口を動かした。既存品と何が違うのか。開発に何年かかったのか。いちばん苦労したのはどこか。
男は最初、警戒するように短く答えた。三つ目の質問のあたりから、言葉が長くなった。町工場を継いだこと。設計はできるが売り先がないこと。厨房の現場に一度も入ったことがないまま、厨房の機械を作っていること。
「現場、見たことないんですか」
「見せてくれるツテがないんですよ」
沼田は、自分の担当先が四十軒あることを思い出した。そして、そのうち何軒の洗い場に立ったことがあるかを数えて、指が二本で足りることに気づいた。
その日、沼田は男に名刺を渡さなかった。渡す流れにならなかった。かわりに男の連絡先を書き留め、翌週、担当先の一軒に「見学だけ」で連れて行った。商談にはならなかった。三か月、何も起きなかった。
年が明けて、男から電話が来た。装置の話ではなかった。同じ組合の別の工場が、冷蔵ショーケースの入れ替えで困っている、と言う。「沼田さん、ああいうの詳しいでしょ」
詳しくはなかった。ただ、詳しい人間に見えていたらしい。案件は小さく、粗利も薄かった。それでも、新規開拓の欄に初めて一行が入った。
三月の同行で、沼田は納品先の洗い場のパートに、洗剤の減りが早い理由を尋ねていた。三十分近く聞いていた。車に戻ると、久我は何も言わなかった。ただ、シートベルトを締めながら小さく笑った。
「注文の話、何回した?」
「ゼロです」
「じゃあゼロで正しい」
沼田は窓の外を見た。在庫だと思っていたものは、たぶん在庫ではなかった。棚に積んだ日には値がつかず、忘れた頃に値がつく類のものだった。
論考
弱い関係が仕事を運ぶ理由
雑談には二種類ある。何も生まない雑談と、関係を生む雑談だ。両者を分けるのは話題の質ではない。互いに相手の話を聞いているかどうか、それだけである。順番に自分の話したいことを放出しあう時間は、会話の形をした独白の交換にすぎない。あなたが先週交わした雑談のうち、相手が本当に言いたかったことを一つでも挙げられるものはいくつあるだろうか。
関係が生まれると何が変わるのか。情報が増えるのではない。優先順位が変わるのだ。人は嫌いな相手の提案を検討しないし、好感を持った相手の提案は前提を疑わずに読み始める。組織の意思決定はもっともらしい手続きを踏むが、その入口には必ず個人がいて、個人は自分が好ましいと感じた相手の話を先に処理する。よく言われる比率として、話すが二、聞くが八というものがある。これは謙譲の勧めではなく、配分の問題だ。気の利いた話を安定供給できる人間はほとんどいないが、相手の関心を追いかけることは訓練で再現できる。過去半年に受注した案件のうち、担当者と業務外の会話を一度もしていない相手からの発注は何件あるか。
ただし、この論には無視できない穴がある。第一に、聞く技術は演技に転落しやすい。興味がないまま相槌だけを最適化した傾聴は、多くの場合その空虚さごと伝わり、関係を築くどころか信用を削る。第二に、雑談の効果は測定がほぼ不可能で、成功した人が事後に自分の経路を説明する語りとしてしか流通しない。うまくいかなかった何千時間分の雑談は誰も報告しない。第三に、この処方は外向的な行動様式を全員に要求する。静かに精度で信頼を稼ぐ人材に対して、不得手な土俵での競争を強いる制度になりうる。雑談が有効だったという証言は、雑談以外の要因では説明できないと言い切れるだろうか。
それでも処方が残るのは、条件を絞ればである。第一に、演技の問題は目的をずらせば解ける。好かれようとするのではなく、相手が何を理解してほしがっているかを探る。探索には本物の関心が要らない。質問の設計だけで足りるし、質問を重ねているうちに関心は後から立ち上がることが多い。第二に、投じるべき先は内輪ではなく外だ。前提を共有する相手との会話は快適だが、そこから新しい機会は出てこない。互いに何も知らない相手との会話は難易度が高く、だからこそ競合が少ない。第三に、回収は遅れる。若いうちに敷かれたレールを走る数年間、雑談は完全に無駄に見える。見返りが十年単位で遅れて届くという性質を、費用対効果の物差しは構造的に評価できない。あなたの組織の評価制度は、三年後にしか値のつかない行動を、今期どう扱っているか。
示唆は単純である。雑談を情報収集の手段として設計すると失敗する。それは相手の中での自分の順位を上げる作業であり、順位が上がった相手の数だけ、将来の選択肢が増える。
**実務への含意**
- 訪問一件につき、商談以外の質問を三つ用意する。相手が答えを長くしたテーマだけを記録し、次回の入口にする。
- 新規接点は「名刺の枚数」ではなく「二度目の会話が成立した人数」で数える。一度きりの接触はゼロと同じである。
- 社内外を問わず、前提知識を共有しない相手と話す時間を月に一定量確保する。快適さは、その時間が機能していないことの指標だと考える。
### 参考文献
- 『雑談力が上がる話し方――30秒でうちとける会話のルール』齋藤孝(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478011311?tag=digitaro0d-22)
- 『人を動かす 新装版』D・カーネギー(創元社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4422100513?tag=digitaro0d-22)
- 『GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代』アダム・グラント(三笠書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4837957463?tag=digitaro0d-22)
※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています