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ショートストーリー

縦書き

欠けた歯車の音

朝九時、藤沢の内線が鳴った。名乗ったのは、聞いたことのない会社名だった。「三宅様の代理でご連絡しています。本日より当面のあいだ、就業を控えられるとのことです」。声は事務的で、三宅本人の言葉は一度も出てこなかった。診断書は追って郵送する、それだけ告げて電話は切れた。 三宅の席は、藤沢の斜め向かいにある。昨日まで、確かにそこに座っていた。様子がおかしいと感じたことは、正直なかった。だからこそ、受話器を置いた手が、しばらく動かなかった。 問題はすぐに現れた。三宅が抱えていた案件は三つ。うち一つは今週が納期だった。藤沢は就業規則を開き、休職の要件を探した。条文は思ったより曖昧で、人事に電話をかけ、法務に確認を回し、午前がまるごと消えた。「代理の会社とは、どこまで話していいんですか」。誰も、はっきりとは答えなかった。下手に返事をすれば、会社が何かを認めた形になりかねない——そんな警戒だけが、澱のように溜まっていった。 昼過ぎ、藤沢は沢口を呼んだ。三宅の案件を引き取れるのは、経験からいって彼しかいなかった。沢口は黙って話を聞き、最後に一言だけ言った。「わかりました」。その声の平坦さが、藤沢には刺さった。 午後の島は、妙に静かだった。誰も三宅の名前を口にしない。かわりに、視線と沈黙が机の間を往復していた。若手の一人が「あの、三宅さんって、いつ戻るんですか」と小声で聞いてきた。藤沢は「わからない」としか言えなかった。わからない、が正直なところだった。本人と話せない以上、戻る時期も、理由も、何ひとつ手元になかった。人員計画は、空白のまま組み直すしかない。 夕方、給湯室で沢口と鉢合わせた。沢口はカップに湯を注ぎながら、藤沢を見ずに言った。「別に、休むのは権利ですよね。それは、いいんです」。湯気が立った。「ただ、なんで、こっちが黙って割を食う側なのかなって。それだけ、ちょっと」。藤沢は何も返せなかった。守るべき権利があるのは、三宅だけではない。目の前の沢口にも、理不尽に潰されない権利があるはずだった。だが、それを保証する仕組みは、この会社のどこにも書かれていなかった。書かれていないものは、たいてい現場の誰かが、自分の身を削って埋めている。 その夜、藤沢は残業しながら、三宅に短いメッセージを送った。返信は期待していなかった。「無理はしないでください。席は、そのままにしておきます」。送ってから、なぜそう書いたのか少し考えた。三宅を責めないため、というより、たぶん、この現場をまだ人の集まりだと思っていたかったからだ。番号や工数ではなく。 数日後、沢口が案件を一つ、前倒しで片づけた。「思ったより、巻けました」とだけ言って、彼はまた自分の仕事に戻っていった。藤沢は、その背中に小さく頭を下げた。歯車が一つ欠けても、機械はしばらく回る。だが、回し続けているのが誰なのかを見なくなった組織からは、次の歯車が、また静かに抜けていく。

論考

縦書き

離脱の自由と、残る者の生存権

働き手が自らを守るために職場を離れる。その選択は、当人にとって正当なものだ。近年は、本人が直接向き合わずとも、第三者を介して離脱の意思を告げる手段も広がりつつある。だが、離脱が「非対面」「代理」で完結するほど、そのしわ寄せは特定の場所へ集中していく。中間管理職と、現場に残る少数の実務者だ。——ある離脱が組織に与える負荷は、いま誰の机の上で、どの程度可視化されているだろうか。 負荷は二つの層で発生する。ひとつは手続きの層だ。休職や長期離脱は法で一律に定まっておらず、多くは社内規程に委ねられる。要件の解釈、診断書の扱い、代理者との接触範囲——現場の管理職はその判断を、通常業務を止めてまで引き受ける。もうひとつは感情の層だ。穴の空いた業務は消えず、「文句を言わずにやれる人」へ静かに上乗せされていく。——あなたの組織で、欠員の負荷は制度として再配分されているか、それとも個人の責任感に依存しているか。 とはいえ、離脱する側を責めるのは筋違いだ。限界まで追い詰められた人にとって、直接対峙せずに離れられる仕組みは、確かなセーフティネットになる。対面の交渉が常に健全とは限らない。むしろ「お互い様」という言葉が、これまで多くの無理を個人に飲ませてきた側面もある。——離脱のハードルを下げることと、残る者を守ることは、本当にトレードオフなのだろうか。 対立の構図を、個人対個人へ落とし込むと見誤る。本来、人員の補充と業務量の調整は組織の責任だ。にもかかわらず、怒りの矛先は「突然いなくなった個人」へ向かいやすく、その火の粉をまともに浴びるのが管理職になる。問題は誰が悪いかではなく、離脱の衝撃を吸収する構造が用意されていないことにある。——離脱が起きたとき、最初に動くべきは個人の善意か、それともあらかじめ設計された手順か。 組織にできるのは、離脱をゼロにすることではない。離脱が起きる前提で、衝撃の受け皿を先に用意しておくことだ。残る側に「自分だけが割を食っている」という感覚が芽生えた瞬間、それは次の離脱の予兆でもある。——残った人が黙って引き受けた分を、組織はどのように記録し、報いているだろうか。 **実務への含意** - 欠員時の業務再配分を、個人の裁量ではなく事前のルールとして決めておく - 残る側の負荷を可視化し、評価や報酬に反映する経路を用意する - 管理職を板挟みのまま放置せず、人事・法務が判断を分担する体制を持つ ### 参考文献 - 『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』宇田川元一(NewsPicksパブリッシング)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4910063013?tag=digitaro0d-22) - 『チームが機能するとはどういうことか』エイミー・C・エドモンドソン(英治出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4862761828?tag=digitaro0d-22) - 『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』アダム・グラント(三笠書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4837957463?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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