中堅の業務支援会社「リンクワークス」で、葵は十年来の取引先・高木部長の担当を任されていた。創業期から支えてくれた大口顧客で、社内では「高木案件は葵じゃないと回らない」と言われている。
その高木が、ここ数か月おかしかった。打ち合わせの席で、些細な誤字を見つけては三十分説教する。「君らはわかってない」が口癖になり、語気は回を追うごとに荒くなった。葵は「お得意様だから」と笑顔で受け流し続けたが、先週ついに、会議室を出たあと給湯室で声を殺して泣いた。
消耗する担当者
「もう、無理かもしれない」。同僚の直樹に漏らしたのは、その夜だった。「我慢が足りないのかな。向こうは大事なお客さんだし、うちの売上の柱だし」
直樹はコーヒーを置いて、しばらく考えてから言った。「葵さん、それ、我慢の問題かな。親しき仲にも礼儀あり、ってあるだろ。長い付き合いだからって、何を言ってもいいわけじゃない。境界線を踏まれてるのに、踏まれた側が我慢を増やすのは、たぶん順番が逆だ」
同僚の諭し
葵は顔を上げた。「でも、突き放したら関係が壊れる」
「壊れかけてるのは、もう踏んでる側のせいだよ」と直樹は静かに言った。「それにさ、高木さん、たぶん本当はしんどいんだと思う。役員会のプレッシャーか、部下が動かないか。素直に『今うちは火の車で、余裕がないんだ』って言えれば、こっちも構えて支えられる。それをプライドが邪魔して、説教って形でしか出せない。やり方が、ただ下手なんだ」
葵は黙った。直樹は続けた。「俺さ、先月、外注先のデザイナーに事前にこう頼んだんだ。『今回は自信がないので、厳しめに突っ込んでほしい』って。そしたら向こうも腹をくくって、最高の指摘をくれた。弱みを先に見せたほうが、いい仕事をしてもらえる」
翌週、葵は打ち合わせの冒頭で、思い切って言ってみた。「高木さん、最近お忙しそうですね。もし急ぎの局面でしたら、優先順位を一緒に組み直しますが」。高木は一瞬、虚を突かれた顔をした。それから、ふっと肩の力が抜けたように笑った。「……バレてたか。実はな、上が無茶を言ってきててな」
和らぐ対話
説教は、その日はなかった。
帰り道、葵は思った。礼儀とは、よそよそしさではない。相手を一人の人間として尊重し続ける、いちばん知的な親しさの形なのだと。