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ショートストーリー
刺激の檻
営業部長の沢村誠一は、四十五歳にして自分が「永遠の新規開拓者」であることに気づいていなかった。
彼の営業成績は常にトップクラスだった。新しい顧客を獲得する瞬間、沢村の目は輝いた。初対面の緊張感、相手の懐に入っていく駆け引き、そして契約成立の高揚感。その快感を求めて、彼は次々と新規顧客を開拓し続けた。
問題は、その後だった。
「沢村さん、また既存顧客からクレームです」
部下の田中が困った顔で報告してきた。三ヶ月前に大型契約を結んだ製造会社からだ。導入後のフォローがおろそかになっていると。
「ああ、それは君が対応してくれ」
沢村は手を振った。既存顧客のケアは、彼にとって退屈な作業でしかなかった。あの契約を勝ち取った興奮は、もう遠い記憶だ。今は別の案件で頭がいっぱいだった。
ある日、人事部から呼び出しがあった。執行役員の前田が、沢村の向かいに座った。
「沢村君、君の新規獲得能力は素晴らしい。だが、顧客の継続率が部署で最低だ」
数字を突きつけられた。確かに、彼が獲得した顧客の多くが一年以内に離脱していた。
「新規を取れば、既存は誰かがフォローするものでしょう」
「そうじゃない」前田は首を振った。「君は、関係を深めることから逃げている」
その言葉が、沢村の胸に突き刺さった。
帰宅すると、妻の美香が夕食を用意していた。二十年連れ添った妻。最近は会話も減り、週末も別々に過ごすことが多くなっていた。
「今日、お母さんから電話があったわ」
美香が言った。沢村の母親だ。八十を超えて一人暮らしを続けている。
「また何か言ってたか」
「寂しいんだと思う。たまには顔を見せてあげて」
沢村は曖昧にうなずいた。母との関係は、昔から難しかった。幼い頃、母は常に忙しく、沢村の話をゆっくり聞いてくれることはなかった。何かを伝えようとしても、母は自分の話を始めた。いつしか沢村は、深い関係を築くことを諦めるようになっていた。
新しい出会いの興奮だけが、彼を満たしてくれた。
翌週、沢村は思い切って三ヶ月前の顧客を訪問した。謝罪のつもりだった。だが、先方の担当者は意外にも穏やかだった。
「沢村さん、正直に言うと、契約した時のあなたは魅力的でした。でも、その後が続かなかった」
「申し訳ありません」
「謝罪が聞きたいんじゃないんです。あなたがどう変わるかを見たいんです」
その夜、沢村は久しぶりに美香と長く話した。自分の仕事のこと、母との関係のこと、そして何より、関係を深めることへの恐れについて。
「私も気づいてた」美香は静かに言った。「あなたはいつも、新しいものを追いかけてる。でも、私はここにいるのよ」
沢村は黙ってうなずいた。
翌日から、彼は既存顧客への定期訪問を始めた。最初は苦痛だった。新鮮さのない、地道なやり取り。だが、続けるうちに、別の種類の手応えが生まれてきた。
信頼という、ゆっくりと育つ何か。
一年後、沢村の顧客継続率は部署でトップになった。新規獲得のペースは落ちたが、売上総額は変わらなかった。
「変わったな」前田が言った。
「変わったというより、気づいたんです」沢村は答えた。「刺激を追い続けることが、逃げだったと」
週末、沢村は母の家を訪ねた。何を話すでもなく、ただ隣に座った。母は少し驚いた顔をして、それからぽつりぽつりと昔話を始めた。
沢村は、初めて最後まで聞いた。
論考
「刺激依存」からの脱却――なぜ人は深い関係を避けるのか
**序**
人間関係には段階がある。出会いの興奮、価値観の共有、そして互いの役割を認め合う成熟した関係性。恋愛心理学ではこれをSVR理論と呼び、刺激(Stimulus)から価値観(Value)、役割(Role)へと移行するプロセスとして説明する。しかし、この移行に失敗する人々が一定数存在する。彼らは常に「刺激」の段階にとどまり、深い関係を築く前に新しい対象へと移っていく。この行動パターンは恋愛に限らず、仕事や人間関係全般に見られる。なぜ人は関係を深めることを避けるのか。そこにはどのような心理的メカニズムが働いているのだろうか。
問い:刺激を求め続ける行動は、どの程度まで個人の選択であり、どの程度まで過去の経験に規定されているのか。
**展開**
関係を深めることへの回避には、二つの要因が考えられる。第一に、「脱錯覚」への恐れである。人は新しい関係において、相手を理想化する傾向がある。この理想化された状態は心地よい。しかし、関係が深まるにつれて、相手の現実の姿が見えてくる。この「脱錯覚」のプロセスは避けられないが、それを苦痛と感じる人は、脱錯覚が起こる前に関係を終わらせようとする。
第二に、責任からの逃避がある。成熟した関係は相互依存を伴う。相手の人生に責任を持ち、自分も相手に依存することを受け入れなければならない。この責任を重荷と感じる人は、コミットメントを避け、表面的な関係を繰り返す。
問い:脱錯覚を恐れる傾向と、責任回避の傾向は、どちらが行動により強く影響するのか。
**反証**
しかし、すべての「刺激追求」が病理的なわけではない。リーの恋愛類型論によれば、恋愛をゲームとして楽しむ「遊びの愛」も正当な恋愛形態の一つである。また、新しい挑戦を求め続けることが創造性や成長の源泉となる場合もある。問題は、その行動が本人の望む人生を妨げているかどうかである。
さらに、関係を深められない原因が必ずしも個人の心理だけにあるとは限らない。社会構造、経済状況、働き方の問題が関係構築の障壁となることもある。個人の心理に還元しすぎることへの注意も必要である。
問い:刺激追求行動と創造性・成長の関係は、どのような条件下で正の相関を示すのか。
**再構成**
アタッチメント理論は、この問題に重要な視座を提供する。幼少期に安定した愛着関係を築けなかった人は、大人になってからも深い関係を形成することに困難を抱えやすい。親との関係で「自分の話を聞いてもらえない」「感情を受け止めてもらえない」という経験を重ねた人は、親密さそのものを危険なものと感じるようになる。
だが、これは決定論ではない。心理療法の分野では、成人後でもアタッチメントのパターンを修正できることが示されている。過去の傷つき体験を安全な環境で再体験し、新しい意味づけを行うことで、関係性のパターンは変化しうる。
問い:成人後のアタッチメント修正において、どのような介入が最も効果的か。
**示唆**
刺激依存から脱却するためには、まず自分のパターンに気づくことが必要である。新しいものを追い求める行動の背後に、何からの逃避があるのかを問うこと。そして、「深める」ことへの不安を、少しずつ体験を通じて和らげていくこと。これは一朝一夕には達成できないが、意識的な取り組みによって可能になる。
**実務への含意**
- 新規プロジェクトへの熱意と既存業務へのコミットメントのバランスを定期的に自己点検する
- 「退屈」と感じる関係や仕事にこそ、長期的な価値が潜んでいる可能性を考慮する
- 過去の重要な関係性のパターンが、現在の行動にどう影響しているかを振り返る機会を持つ
**参考文献**
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