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ショートストーリー
窓際の椅子
宮本は、カレンダーの日付を見つめた。五十三歳。入社から三十年が経とうとしていた。
「宮本さん、この資料のチェックお願いできますか」
若手の田中が遠慮がちに声をかけてきた。かつては自分も同じように先輩たちに資料を持っていったものだ。宮本は黙って資料を受け取り、デスクに置いた。
三年前、同期の中村が部長に昇進した。宮本は昇進レースから外れ、専門職という名の窓際に配置された。給与は下がらない。しかし、それ以上がないことも分かっていた。
「必要最低限のことだけやればいい」
そう思うようになったのは、いつからだろうか。
人事部の新しい施策で、五十代以上の社員に対するキャリア研修が始まった。宮本は渋々参加したが、研修担当の女性の言葉が頭に残った。
「皆さんは、何のために働いていますか」
愚問だ、と宮本は思った。給料のためだ。生活のためだ。それ以外に何がある。
研修後、宮本は喫煙所で一人煙草をふかしていた。そこに、かつての部下だった山田が現れた。山田は今や別部署の課長になっている。
「宮本さん、お久しぶりです」
「ああ、山田か。出世したな」
「いえ、宮本さんに鍛えていただいたおかげです」
山田は煙草を吸わない。わざわざ話しに来たのだ。
「実は相談があるんです。新規事業の企画を任されまして。でも、私には製造現場の知識が足りなくて」
宮本はかつて製造部門で二十年近く働いていた。工場の隅々まで知り尽くしている。
「俺に何ができる」
「現場のことを教えていただけませんか。週に一度でも構いません」
宮本は煙草を灰皿に押し付けた。
「俺はもう、そういうのは......」
言いかけて、止まった。山田の目が真剣だった。かつて自分が指導していた頃の、あの必死な目だ。
翌週、宮本は山田のチームの会議に参加した。若い社員たちは宮本を珍しそうに見た。窓際のおじさんが何をしに来たのか、という顔だ。
宮本は黙って資料を見た。そして、口を開いた。
「この設計だと、B工場のラインでは対応できない。C工場の三号機なら可能だが、稼働率を考えると現実的じゃない」
会議室が静まった。
「どうすればいいですか」山田が尋ねた。
「D工場の古い設備を改修する手がある。あそこには使われていない治具がある。俺が設計に関わったやつだ」
宮本は立ち上がり、ホワイトボードに図を描き始めた。手が覚えていた。三十年分の知識が、指先から流れ出した。
会議が終わると、若手の一人が近づいてきた。
「宮本さん、すごいですね。僕、全然知らなかったです」
宮本は少し照れた。久しぶりの感覚だった。
その夜、宮本は帰宅途中の電車で考えた。自分は何を失っていたのだろう。給与が上がらないから頑張らない。それは本当だろうか。
翌月、宮本はD工場への出張を申し出た。上司は驚いた顔をしたが、承認した。
工場では、若い技術者たちが宮本を待っていた。古い設備の改修について、現場の意見を聞きたいという。
宮本は作業着に着替え、機械の前に立った。油の匂いが懐かしかった。
「ここのボルトを緩めると、この部品が外れる。そうすると、新しいユニットが取り付けられる」
若い技術者がメモを取った。その姿が、かつての自分に重なった。
三ヶ月後、新規事業の試作品が完成した。山田から報告を受けたとき、宮本は静かに頷いた。
「宮本さんのおかげです」
「俺は何もしていない。お前たちがやったんだ」
だが、宮本の心には小さな灯りがともっていた。消えかけていた火が、また燃え始めていた。
人事部から連絡があった。来年度から、製造部門の若手育成プログラムのアドバイザーを務めてほしいという。
宮本は窓の外を見た。夕日がビルを照らしていた。
昇進はもうない。給与も上がらないだろう。
それでも、まだ自分にできることがある。
宮本は静かに、返事を書き始めた。
論考
ミドルシニアの停滞は構造の産物か、選択の結果か
**序**
中高年社員のモチベーション低下は、しばしば個人の怠惰として語られる。しかし、この現象は日本型雇用システムの構造的帰結である可能性が高い。管理職ポストには限りがあり、昇進レースから外れた社員が意欲を失うのは、インセンティブ設計の必然的結果ともいえる。では、なぜ同じ状況でも意欲を維持できる人とそうでない人がいるのか。その差異を生む要因は何か。
*問い:管理職になれなかった社員のうち、どの程度の割合が意欲低下を経験しているか。*
**展開**
意欲の維持において最も重要な要因は自己効力感である。「自分ならできる」という確信は、小さな成功体験の積み重ねによって形成される。中高年社員の場合、長年の経験から得た専門知識や人脈が強みとなりうる。問題は、その強みを発揮する機会が制度的に減少していることにある。
キャリア後半期において求められるのは、働く意義の再定義である。昇進や昇給以外の価値、たとえば後進の育成、専門知識の継承、社会貢献といった観点から、自らの役割を捉え直すことが有効となる。外部ネットワークの構築も重要である。社内に閉じたキャリア形成では、新たな刺激や成長機会を得にくい。
*問い:キャリアの意義を再定義した社員は、そうでない社員と比較して、どの程度パフォーマンスに差があるか。*
**反証**
ただし、全員が変われるわけではない。長年の習慣や思考パターンを変えるには相当なエネルギーが必要である。また、若い頃に低賃金で働いた分を今回収しているという意識も無視できない。組織側が一方的に変化を求めることには限界がある。
さらに、心理的安全性が低い職場では、中高年社員の挑戦を促すことは難しい。失敗を許容しない文化があれば、リスクを取る合理性がないからである。
*問い:心理的安全性の高い職場と低い職場で、中高年社員の挑戦行動にどの程度の差があるか。*
**再構成**
構造的問題と個人の選択は二項対立ではない。組織は環境を整備し、個人はその中で主体的に行動する。上司によるポジティブなフィードバック、小さな成功体験の設計、挑戦を許容する組織風土の醸成が、中高年社員の自己効力感を高める。
興味深いことに、五十代後半から六十代にかけて、意欲が再上昇する傾向がある。定年が見えてくることで、かえって残りのキャリアを有意義に過ごそうとする意識が生まれるのかもしれない。つまり、ミドルシニア期の停滞は一時的なものであり、適切な介入によって変化する余地がある。
*問い:五十代後半以降に意欲が向上した社員は、どのようなきっかけで変化したか。*
**示唆**
人生百年時代において、ミドルシニア期はキャリアの終盤ではなく中盤である。この時期をどう過ごすかが、その後の二十年以上を左右する。組織と個人の双方が、この認識を持つことが出発点となる。
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**実務への含意**
- 中高年社員に対して小さな成功体験を設計し、自己効力感を段階的に高める仕組みを導入する
- 管理職以外のキャリアパス(専門職、育成担当、社内コンサルタント等)を明確化し、昇進以外の価値を可視化する
- 心理的安全性を高め、挑戦の失敗を許容する組織文化を醸成する
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**参考文献**
- 自己効力感: https://www.amazon.co.jp/s?k=自己効力感&tag=digitaro0d-22
- キャリア開発: https://www.amazon.co.jp/s?k=キャリア開発&tag=digitaro0d-22
- 心理的安全性: https://www.amazon.co.jp/s?k=心理的安全性&tag=digitaro0d-22
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