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ショートストーリー

縦書き

窓際の灯

中堅機械商社の情報システム室は、フロアの一番奥にあった。山岸かおるは三十五歳、入社十年目で、長らく社内の発注画面の細かな改善を一人で担ってきた。「ここに一行コメント欄があると現場が助かる」「この検索は曖昧マッチでないと使われない」――そういう声を拾っては、夜中にこっそり手を入れる。利用者からの礼が、彼女の燃料だった。 四月、新任の早乙女マネージャーがやってきた。前職は大手SIerで、業務システムの標準化を推進していたという。彼の最初の方針は明快だった。 「個別最適は技術負債です。今期から外部パッケージに寄せます。山岸さんが入れてくれた小回りの効く機能群、申し訳ないですが、いったん全部外させてください」 会議室の空気が、わずかに冷えた。山岸は反論しなかった。彼の言うことは正しい。属人的な改修は、彼女が異動すれば誰も保守できない。けれど、夜中に手を入れた一行一行が、明日から無効になることに、心の中の何かが擦り切れていく感覚があった。 帰り道、駅前の居酒屋で同期の沖田を待った。沖田は三年前に独立し、いまは中小企業向けの受注支援の仕事で食べている。 「めずらしいね、かおるが愚痴」 「愚痴じゃない。たぶん、私が間違ってる」 「うん?」 「私、あの会社にいる限り、決まった仕様を黙って書く側でいるべきだったんだよ。なのに、現場の声を拾って勝手に変えて、自分の判断で動いてた。早乙女さんは正しい。私が、向いてない場所で向いてない動き方をしてただけ」 沖田はビールを置いて、しばらく黙っていた。 「向いてない場所、っていうのはたぶん合ってる。でも、向いてない動き方、ではないよ」 「?」 「うちのクライアント、零細の家具屋だけど、先月『この画面、ここをこうしてほしい』って言ってきた。仕様書はおれが書いた。でも、おれは『そのまま実装しますね』って返さなかった。『その変更だと月末の集計でズレますけど、こっちの形でどうですか』って差し戻した。客は納得して、結果、最初の要望よりいいものになった。これ、大手の標準パッケージ部隊でやったらクビだ」 「沖田くんが特別だからでしょ」 「いや。場所が違うだけ。向こうは、決められた仕様を高い精度で実装する人がいないと回らない。こっちは、客の言葉を疑って組み直す人がいないと回らない。同じ性質が、片方では才能で、片方では問題児になる。それだけの話」 山岸は箸を止めた。早乙女が見ているのは、この会社の中の正義だ。沖田が見ているのは、自分の客の中の正義だ。どちらも嘘ではない。 「私、独立向きだって言いたいの?」 「言いたくない」沖田は笑った。「そういう話にすると、また他人軸になるから。聞きたいのは、あの『夜中に一行直してた時間』、楽しかったかどうかだよ」 楽しかった。利用者の小さな「助かった」を集める時間は、間違いなく楽しかった。標準化された画面の保守を淡々とやる未来を想像してみる。安定はしている。心は静かだ。けれど、灯がない。 帰り際、沖田が言った。 「すぐ辞めろとは言わない。ただ、灯る場所と、消える場所がある、ってことだけ覚えておいて。世間は『判断する側』を上だと言いがちだけど、嘘だよ。判断が燃料になる人がいて、実行が燃料になる人がいる。違うのは、どちらが優れてるかじゃなくて、どこに置けば燃え続けるか、それだけ」 山岸は駅の階段を上りながら、ポケットのスマホを取り出し、社内チャットの下書きに「次期プロジェクトの件、相談したいことが」と打ち、しばらく見つめてから、保存だけして送らずに歩き出した。 灯る場所は、まだ決めなくていい。

論考

縦書き

思考量はポジションで決まる――職業観のひとつの整理

「自営業は常に頭を使う」という言い回しがある。これは多くの場合、サラリーマンとの優劣比較として受け取られ、反発を生む。しかしこの命題の核は、職業の優劣ではなく、構造の話だ。職種の名前ではなく、その人が置かれているポジションのほうが、思考の量と種類を決める。検証可能な問い:「自営業」と「サラリーマン」を入れ替えても成り立つ命題は、本当に職業についての命題と言えるのか。 頭を使う量を決めているのは肩書きではなく、ポジションである。外部環境の変化――顧客のニーズ、法規制、競合動向、技術潮流――を、誰かが代わりに吸収してくれる位置にいるか、自分で受け止めなければ事業が止まる位置にいるか。後者の位置に立つ人間は、職業を問わず、思考し続けるしかない。逃げ場がないからだ。これは大企業の経営者にも、零細の自営業者にも、同じく成り立つ。検証可能な問い:あなたの一日の意思決定のうち、もし「会社が代わりに決めてくれる」を期待できなくなった場合、何が機能停止するか。 だが、ポジションだけで頭を使う量が決まるわけではない。判断する立場であっても、過去の成功パターンに頼って惰性で意思決定する経営者はいる。逆に、決められた仕様を高い精度で実装し続ける現場のエンジニアが、解決困難な技術的問題と日々格闘していることもある。「ポジション=思考量」と言い切ると、こうした実態を取りこぼす。検証可能な問い:あなたの周囲で「頭を使っているように見える人」と「実際に頭を使っている人」は一致しているか。 それでも、ポジションが思考の様式を規定するという観察は残る。問題は思考の量ではなく、種類だ。判断する側のポジションは、曖昧な状況に枠を与え続ける思考を要求する。実行する側のポジションは、決まった枠の中で精度を上げ続ける思考を要求する。どちらも頭を使うが、燃料が違う。そして人にも、曖昧さを与えられたくないタイプと、曖昧なままワクワクするタイプがある。心理学でいう統制の所在の話に近い。同じポジションでも、内的統制型には燃料、外的統制型にはストレスとなる。検証可能な問い:自分の燃料がどちらのタイプか、過去三年で最も没頭した仕事を思い出して逆算できるか。 ここから出てくる結論は、判断する側に上がることが正しい、ではない。自分の燃料の種類と、ポジションの要求を一致させた人間が長く燃え続ける、ということだ。世間はなぜか前者を「上」とラベルづけしがちだが、組織は精度の高い実行者なしには回らない。両者に優劣はなく、生息環境のマッチングがあるだけだ。もうひとつ。マッチした人を「特別」「才能」「運」と説明したくなる衝動は、自分のミスマッチを正当化するための防衛機制でもある。気づくとき、選び直すときの、最初の一歩はここにある。検証可能な問い:あなたが「あの人は特別だから」と言うとき、それは観察か、それとも自分の現状の擁護か。 ### 実務への含意 - 求人や転職の判断は、職種名ではなくポジション(思考の種類)で見る - 自分の燃料が判断型か実行型かを、過去の没頭体験から逆算して特定する - 「あの人は特別だから」と片付けたくなった相手こそ、自分の現状を映す鏡として観察する ### 参考文献 - 『科学的な適職』鈴木祐(クロスメディア・パブリッシング)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4295403741?tag=digitaro0d-22) - 『さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 最新版 ストレングス・ファインダー2.0』ジム・クリフトン、ギャラップ(日経BP)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4296118307?tag=digitaro0d-22) - 『フリーエージェント社会の到来 新装版』ダニエル・ピンク(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478029296?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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