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ショートストーリー

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下地のはなし

「正直、要件は単純なんです。売上をリアルタイムで見られるダッシュボード。それだけ作ってもらえれば」 会議室の長机の向こうで、川端工業の社長は早口にそう言った。創業四十年の町工場。最近、息子に専務を譲ったばかりで、社長自身は会長職への移行が決まっている。 聞いていた真鍋は、メモを取る手を止めた。フリーランスのエンジニアになって十二年。発注書通りに作るのが一番楽な道なのは知っている。だが、何かが引っかかった。 「ダッシュボードが要るのは分かりました。差し支えなければ、なぜいま必要だと思われたのか伺っても」 社長は少し怪訝な顔をした。 「いや、若い連中がね、データだ、可視化だってうるさいので。私はもう肌感覚で分かるんですけどね。月末になると、なんとなく今月どうだったかが」 真鍋はそこで頷いた。 「肌感覚は、たぶん社長が四十年かけて作ってこられた一番の資産です。専務のお手元に、その肌感覚は届いていますか」 川端社長は黙った。長い沈黙だった。 「届けようがない、というのが、まあ正直なところですわ」 帰り道、助手席の若い相棒、向井がぽつりと言った。 「真鍋さん、最初の三分でダッシュボードの話、どっか行っちゃいましたね」 「ああ。あれは多分、本当に欲しいものじゃない」 「でも先方は欲しいって言ってましたよ」 「言ってたよ。ただ、専務が言うから、ってさっき言っただろ。社長自身は要らないと思ってる。本当に困ってるのは、自分の頭の中にあるものが息子に渡せないってことだ」 向井は数秒考えてから、首をひねった。 「真鍋さんって、なんでそういうのが見えるんですか。コードしか書かない人にはまず見えないですよ」 「俺もコードしか書く人間だよ」 「それにしては」 真鍋は信号で車を止めた。 「ただ、好きで読んできた本がいくつかあってな。心理学とか、文化人類学とか、経済学の古い本とか。仕事に役立てようなんて全く考えてなかった。夜中に布団の中で読んでただけだ」 「役に立ってるじゃないですか」 「役に立てようと思って読んでた連中より、たぶん役に立ってる。皮肉なことだけどな」 二週間後、真鍋が川端工業に出した提案書には、ダッシュボードは入っていなかった。代わりに、月一回、社長と専務が一時間、決められたテンプレートに沿って対話する仕組みと、その対話を録音して文字起こしする小さなツール、そして三年かけて社長の判断パターンを蓄積していくデータ設計があった。先方は、深く頷いた。 「これですわ。ほんまに欲しかったのは」 社長がそう言ったとき、真鍋は思い出していた。二十代のころ、安アパートの蛍光灯の下で読みふけった文化人類学の薄い本のことを。あれが何の役に立つかなんて、誰も教えてくれなかった。自分も知らなかった。 それでよかったのだと、いまは思う。役に立つから読んだものは、たぶんこれほど深くは染みなかった。 向井が後日、「あの提案、どうやって思いついたんですか」と聞いてきた。真鍋は少し考えてから答えた。 「思いついたんじゃない。ただ、長く下地を作ってきたものが勝手に口から出てきただけだ。下地を作るってのは、そういうことなんだろうな」

論考

縦書き

「役に立つから学ぶ」の落とし穴

※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています キャリアを設計する戦略には、大きく二つある。ひとつは、これからの目標から逆算して、足りないものを学んでいくやり方。もうひとつは、すでに自分の中に積み上がっているものを棚卸しし、それが活きる場所を探すやり方だ。書店のキャリア本の棚を見れば一目瞭然で、世の中は前者を「正解」として扱っている。だが、現場で長く成果を出している人の語りに耳を澄ますと、不思議と後者の物語のほうが多い。 **問い:自分が他人より深く掘ってきたものは何か。それは「役立てるため」に掘ったものだったか。** 「役に立つから学ぶ」という入り方は、構造的に深く入りにくい。ゴールが先に決まっているため、必要分を吸収した時点で「これ以上はコスパが悪い」と感じる回路が働く。一方、面白いから掘る人は、回り道も寄り道もすべて楽しんでしまう。同じ年数を費やしても、堆積する量と種類が桁違いになる。しかも前者は「使うためのレンズ」で対象を見るが、後者は「面白がるレンズ」で見る。この差は、後年クライアントや同僚に向き合うときの所作にじわじわと滲み出る。 **問い:直近一年の自分の学びは、目的のためか、好奇心のためか。** ただし、好きで掘れば必ず仕事になる、というのは美談に過ぎる。蓄積を仕事に転化できるのは、転化先がたまたま自分の職能領域と隣接していた人だけだ、という反論はあり得る。実際、心理学を七百冊読んでも、本人の生計には接続しないまま終わるケースは普通にある。さらに市場は専門特化を高く評価する傾向があり、複数領域を横断する厚みは、看板にしにくいという弱点もある。 **問い:偶然のように見える接続は、本当に偶然なのか。** 接続を生むのは、知の幅ではなく、密度と統合だと考えてみたい。一つの分野を百冊読むと、その分野の主要な著者の思考様式が体内化される。それが複数領域で起きると、頭の中で勝手に翻訳が始まる。経済の言葉で出会った概念を、心理の言葉で言い直せる。クライアントが口にした依頼を、その奥にある動機の言葉に翻訳できる。市場で評価されるのは、表面に見える肩書きやスキルではなく、この翻訳の厚みだ。学問用語をひけらかさず、相手の腑に落ちる言葉で語れる人は、しばしば下地に独自の堆積を持っている。 **問い:自分が一つの分野で「百冊」と呼べる密度に達したものはあるか。** ここから一つの示唆が立ち上がる。ゴールから逆算する学びと、棚卸しから始める学び、どちらが優れているかという二者択一ではない。前者は短期的な不足を埋め、後者は長期的に替えのきかない仕事の輪郭を作る。前者だけでキャリアを組むと、いつまでも欠乏に追われ続ける。後者だけだと、市場との接続を逃しかねない。むさぼった下地を持っている人が、それを表に出す場所を見つける。これが、長く食える人の典型的な軌跡なのだろう。 **実務への含意:** - キャリアの棚卸しは、資格や職歴ではなく「自分が何にむさぼったか」で行う - 学びの動機が「役に立つから」一色になっていないか、半年に一度点検する - 提案や交渉では、相手の依頼そのものではなく、その奥にある期待を見る習慣をつける ### 参考文献 - 『プロフェッショナルの条件』P.F.ドラッカー(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478300593?tag=digitaro0d-22) - 『ストーリーとしての競争戦略』楠木建(東洋経済新報社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492532706?tag=digitaro0d-22) - 『ファスト&スロー(上)』ダニエル・カーネマン(早川書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4150504105?tag=digitaro0d-22)

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