アイキャッチ画像

アイキャッチ画像

ショートストーリー

縦書き

一ミリの隙間

新製品の企画書を前にして、園田美咲は三度目のため息をついた。 マーケティング部の主任に昇進して半年。任されたのは、老舗食品メーカー「丸星フーズ」の新ブランド立ち上げという大仕事だった。美咲はこの仕事に全身全霊を注いでいた。企画書の文言を何十回も書き直し、プレゼン資料のフォントサイズを一ポイント単位で調整し、想定問答を三十パターン用意した。 「園田さん、また残ってるんですか」 振り返ると、隣のチームの後輩、川島拓海が缶コーヒーを差し出していた。 「まだ足りないの。データの裏付けが甘いし、競合分析のスライドも――」 「十分すぎるくらいだと思いますけど」 美咲は首を横に振った。足りない。まだ足りない。この企画が通らなければ、自分が主任にふさわしくないことが証明されてしまう。 翌週の企画会議。美咲は完璧に仕上げたはずのプレゼンに臨んだ。しかし、部長の反応は予想外だった。 「園田、データは申し分ない。だが、肝心の『なぜこのブランドなのか』が伝わってこない。もう一度やり直してくれ」 頭が真っ白になった。あれほど準備したのに。会議室を出た美咲の足取りは重かった。 「完璧に作ったのに」と、給湯室でマグカップを握りしめたまま美咲はつぶやいた。 「完璧に作ったから、じゃないですか」 声の主は、定年間近のベテラン社員、本田誠一郎だった。技術畑一筋で、社内では「変わり者」で通っている。 「どういう意味ですか」 「隙間がないんだよ、園田さんの企画書は」本田はインスタントコーヒーをゆっくりかき混ぜた。「一ミリの隙間もない。だから相手が入り込む余地がない。完璧なものって、実は人を遠ざけるんだ」 美咲は反論しようとして、言葉が出なかった。 「俺が若い頃、新素材の開発プレゼンでね。三カ月かけて作った資料を、上司に全部やり直せって言われたことがある。悔しくてね。でも二回目は、あえて未完成の部分を残して出したんだ。『ここはまだ検証中です。皆さんの意見を聞かせてください』って」 「それで?」 「会議が盛り上がったよ。初めて。みんなが自分ごととして考え始めた。完璧な資料には『すごいね』しか返ってこない。でも余白のある資料には、人が集まってくる」 その夜、美咲は自宅のデスクで、本田の言葉を反芻していた。ふと、自分のこれまでを振り返った。学生時代のレポートも、前職での提案書も、いつも「完璧」を目指してきた。そしていつも、どこかで息が詰まっていた。 完璧でなければ認められない。そう信じていた。だが本当にそうだろうか。自分が恐れていたのは、不完全な自分をさらけ出すことだったのではないか。 翌日、美咲は企画書を一から作り直した。ただし今回は、データの精緻さよりも「自分がなぜこのブランドを作りたいのか」を軸に据えた。地方の契約農家を訪ねた時に感じた土の匂いや、試食会で子どもが見せた笑顔。そういう、数字にならない手触りを言葉にした。 そして、あえて最後のスライドにこう書いた。「この企画には、まだ足りないものがあります。それを一緒に見つけてください」 再プレゼンの日。部長は最後のスライドを見て、少し笑った。 「面白い終わり方だな」 会議室に、ぽつぽつと意見が出始めた。営業部の山下が流通の課題を指摘し、製造の佐々木がコスト面の代替案を提案した。前回は沈黙していたメンバーたちが、次々と口を開いた。 企画は満場一致で承認された――ただし、大幅な修正付きで。 会議後、川島が駆け寄ってきた。「園田さん、今日のプレゼン、前と全然違いましたね。なんか、人間味があったっていうか」 美咲は苦笑した。「褒めてるの、それ?」 「褒めてます。すごく」 帰り際、エレベーターホールで本田と目が合った。美咲は小さく頭を下げた。本田は缶コーヒーを軽く掲げて、何も言わずに笑った。 デスクに戻ると、修正依頼の付箋が山のように貼られた企画書があった。以前の自分なら、それを見て打ちのめされていただろう。でも今は違った。 付箋の一枚一枚が、誰かがこの企画に手を伸ばしてくれた証拠だった。 完璧な企画書は、誰のものでもない。でも、隙間のある企画書は、みんなのものになる。美咲はペンを取り、最初の付箋に目を通し始めた。まだ足りないものを、今度は一人ではなく、みんなで見つけるために。

論考

縦書き

「完璧」が仕事を殺すとき――高い基準と完璧主義の分水嶺

#### 序 ビジネスの現場で「高い基準を持て」と言われることは多い。品質にこだわり、細部まで妥協しない姿勢は、確かにプロフェッショナルの条件とされる。しかし、その「こだわり」がある一線を越えたとき、生産性を高めるどころか、個人と組織の両方を蝕む毒に変わる。高い基準と完璧主義は、表面上は似ていながら、本質的にまったく異なる。前者が成長への意欲に根ざすのに対し、後者の核心にあるのは恐れである。では、その分水嶺はどこにあるのか。 *問い:あなたの「こだわり」は、何を達成するためのものか、それとも何を避けるためのものか。* #### 展開 完璧主義の正体は、「自分には何かが足りない」という根源的な不安である。失敗への恐れ、無能だと見なされる恐れ、他者からの評価を失う恐れ。これらが複合的に作用し、行動を麻痺させる。具体的には、企画書を何十回も書き直して提出期限を過ぎる、プレゼンの準備に過剰な時間をかけて本質を見失う、新しい挑戦を「まだ準備ができていない」と先延ばしにする、といった症状として現れる。 興味深いのは、完璧主義者ほど「高い基準を持っている」と自認している点だ。しかし、健全な高い基準を持つ人は、失敗を学びの機会と捉える。一方、完璧主義者は失敗を自己の存在価値への脅威と感じる。この違いは、キャロル・ドゥエックの研究が示す「成長マインドセット」と「固定マインドセット」の対比と重なる。 *問い:過去一カ月で、失敗を恐れて着手しなかったタスクはないか。* #### 反証 ただし、完璧主義を全否定するのは早計だ。製品の品質管理、医療現場の手順遵守、法務文書の精査など、ミスが致命的な結果を招く領域では、徹底的な正確さが求められる。また、完璧を追求する過程で生まれるイノベーションも存在する。スティーブ・ジョブズのプロダクトデザインへの執着は、しばしば完璧主義的と評されたが、それが革新的な製品を生んだのも事実である。 問題は、完璧主義が「手段」ではなく「目的」になったときに生じる。品質を高めるための追求と、不安を鎮めるための追求は、外見は同じでも動機が根本的に異なる。後者は際限なくエスカレートし、やがて本人の健康や人間関係を蝕む。 *問い:あなたの組織では、「質の追求」と「恐れによる停滞」の区別がつけられているか。* #### 再構成 完璧主義を手放すことは、基準を下げることではない。むしろ、より本質的な基準を取り戻すことだ。ある考え方によれば、有効なのは「完璧さよりも進歩」を唯一の尺度にすることである。昨日の自分より一歩でも前に進んだか。学びがあったか。この問いに答えられるなら、それは十分に高い基準だ。 実務的には、以下の転換が有効である。まず、「初心者であること」を許容する文化をつくること。誰もがプロフェッショナルとしてスタートラインに立った日がある。不格好な第一歩を踏み出せる心理的安全性がなければ、組織は硬直する。次に、他者との比較ではなく、過去の自分との比較を評価軸にすること。比較は創造力を奪う最も確実な方法だ。そして、進歩が直線的ではなくジグザグに進むものだと理解すること。後退や停滞を「失敗」ではなく「プロセスの一部」と認識することが、持続的な成長を支える。 *問い:チームの評価制度は、「完璧な成果」と「着実な進歩」のどちらを重視しているか。* #### 示唆 完璧主義は個人の性格特性であると同時に、組織が無意識に強化する文化でもある。失敗を許さない空気、減点主義の評価、前例踏襲の圧力――これらが完璧主義を増殖させる培養器となる。逆に言えば、「不完全さ」に寛容な組織は、より多くの挑戦を生み、結果としてより高い成果を達成する可能性がある。完璧を目指す力は、恐れではなく好奇心から湧き出るとき、初めて本来の機能を果たす。 *問い:あなたの組織は、「完璧な計画」を待つことで、どれだけの機会を逃しているか。* #### 実務への含意 - **プロジェクト開始時に「最低限の完成形」を定義し、まず形にしてからフィードバックを得るプロセスを標準化する** - **1on1やチーム振り返りで「今週の進歩」を共有する習慣を設け、完璧ではなく前進を評価する文化を醸成する** - **新規プロジェクトの初回レビューでは「粗さ」を歓迎する姿勢を明示し、心理的安全性を担保する** ### 参考文献 - 『マインドセット「やればできる!」の研究』キャロル・S・ドゥエック(草思社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4794221789?tag=digitaro0d-22) - 『本当の勇気は「弱さ」を認めること』ブレネー・ブラウン(サンマーク出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4763133004?tag=digitaro0d-22) - 『がんばりすぎるあなたへ 完璧主義を健全な習慣に変える方法』ジェフ・シマンスキー(CCCメディアハウス)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4484131110?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

ハッシュタグ