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ショートストーリー
ぬるま湯の中で
人事部の大森課長は、退職届を見つめていた。今月で三人目だ。
「また若手ですか」
隣の席の吉田が溜息をついた。
「ああ。入社二年目の藤本くん。一度も怒ったことないのに」
大森は頭を抱えた。三年前、会社は大きく変わった。パワハラ問題をきっかけに、管理職研修が刷新され、「心理的安全性」という言葉が社内に浸透した。怒鳴らない。否定しない。誰もが安心して発言できる職場を目指した。
その結果、離職率は上がった。
藤本が大森のデスクにやってきた。
「すみません、大森さん。直接お話ししたくて」
「座って。理由を聞かせてもらえるか」
藤本は少し躊躇してから口を開いた。
「居心地は良かったです。怒られることもないし、みんな優しいし」
「じゃあ、なぜ」
「それだけなんです」
大森は眉をひそめた。
「もう少し説明してくれないか」
「二年いて、何ができるようになったのか、わからないんです」
藤本の言葉は静かだった。
「同期で転職した友人がいるんですけど、もう大きなプロジェクト任されてて。SNSで見るたびに、自分は何やってるんだろうって」
「でも、君にも仕事は任せてきたつもりだが」
「任せてもらえたのは、先輩のサポートばかりでした。失敗しないように、いつも誰かが横についてくれて。ありがたいんですけど……」
藤本は俯いた。
「僕、もっと失敗したかったんです」
その夜、大森は開発部の田中部長を飲みに誘った。田中の部署は離職率が低い。理由を知りたかった。
「心理的安全性、うちも大事にしてるよ」
田中はビールを飲みながら言った。
「でも、それだけじゃダメなんだ」
「どういうことだ」
「安全ってのは、転ばないように守ることじゃない。転んでも大丈夫だと思える環境を作ることだ」
田中は続けた。
「若い連中はさ、自分がどれだけ成長してるか、すごく気にしてる。SNSで他人の成功がいくらでも見えるから。『あいつはあれだけやってるのに、俺は何やってんだ』って」
「だから成長実感が必要だと」
「そう。でも成長ってのは、楽な道じゃ得られない。多少の負荷がないと」
大森は黙った。
「うちではね、入社半年で小さなプロジェクトのリーダーをやらせる。失敗しても責めない。でも、振り返りは徹底する。何がダメだったか、次にどうするか。それを本人に考えさせる」
「怒らないのか」
「怒らないよ。でも、曖昧にもしない。フィードバックは早く、具体的にやる。それが礼儀だと思ってる」
翌週、大森は新しい取り組みを始めた。
入社二年目の山田を呼んだ。
「新規採用のオンボーディング企画、君に任せようと思う」
山田は目を丸くした。
「私にですか?」
「不安か」
「正直、はい」
「失敗してもいい。でも、途中で必ず相談してくれ。フィードバックは俺からちゃんとする」
山田は少し考えてから頷いた。
「やってみます」
一ヶ月後、山田の企画は完璧ではなかった。抜け漏れがあり、スケジュールも甘かった。大森は一つひとつ指摘した。優しくはしない。でも、責めもしない。
「ここ、なぜこうなった?」
「時間がなくて……」
「時間がないなら、何を削るべきだった?」
山田は悔しそうな顔をした。でも、その目には光があった。
「次は、優先順位をもっと考えます」
半年後。
山田は二回目のプロジェクトを成功させた。本人の顔つきが変わっていた。
「大森さん、ありがとうございました」
「何がだ」
「失敗させてくれて」
大森は笑った。
その年、人事部の離職率は下がった。心理的安全性は維持したまま、成長の機会を設計し直した結果だった。
大森は窓の外を見ながら思った。
優しさだけでは、人は育たない。安心して挑戦できる場所と、適切な負荷。その両方が必要なのだ。
新しい採用面接の季節がやってきた。今度こそ、辞めさせないのではなく、育てる組織を作ろう。
論考
心理的安全性の先にあるもの——成長実感を設計する組織論
**【序】**
若手社員の離職が止まらない。職場環境を改善し、ハラスメント対策を徹底し、心理的安全性を高めたはずなのに、なぜ辞めていくのか。この問いに多くの管理職が直面している。答えは単純だ。心理的安全性は必要条件であっても十分条件ではない。特にZ世代と呼ばれる若手層にとって、「安心できる」だけでは組織に留まる理由にならない。彼らが求めているのは、自己成長を実感できる機会である。
検証可能な問い:自社の離職者に「心理的安全性は感じていたか」と「成長実感はあったか」を分けて聞いたことがあるか。
**【展開】**
価値観の変遷を整理すると構造が見えてくる。かつては「モノを持つこと」が価値だった。次に「コトを体験すること」へ移行した。現在の若手世代は「何かになりたい」という自己実現的価値を重視する傾向が強い。
この変化の背景には、SNSによる情報環境の激変がある。同世代の活躍がタイムラインに流れてくる日常において、自分の成長速度は常に比較にさらされる。さらに、副業・転職・独立といったキャリアの選択肢が増えたことで、「この会社にいる必要があるのか」という問いが発生しやすくなった。成長実感がなければ、他の選択肢に目が向くのは自然な流れである。
検証可能な問い:若手社員は自分の成長を何と比較しているか、把握しているか。
**【反証】**
ただし、成長を強調するあまり、心理的安全性が損なわれては本末転倒となる。「成長しろ」というプレッシャーが過剰になれば、挑戦意欲そのものが萎縮する。また、すべての若手が成長志向とは限らない。安定を求める層も確実に存在する。
重要なのは、心理的安全性と成長機会を二項対立で捉えないことだ。安心して挑戦できる環境と、適切な負荷がかかる機会。この両立が求められる。「失敗しても責められない」と「失敗から学ぶ機会がある」は同時に成立しうる。
検証可能な問い:自組織において「失敗を責めない」と「失敗から学ばせる」のバランスはどう設計されているか。
**【再構成】**
成長実感を生む組織設計には三つの要素がある。
第一に、早期の責任付与。入社後できるだけ早い段階で、小さくても主担当となる経験を与える。サポート役に留まり続けることは、成長実感の欠如につながる。
第二に、迅速で具体的なフィードバック。曖昧な評価は成長を阻害する。何が良かったのか、何が足りなかったのか。評価の軸を明確にし、タイムリーに伝えることが必要だ。
第三に、仕事の意味の言語化。なぜこの業務が存在するのか、完了すると誰にどんな価値が生まれるのか。目的を共有することで、作業が成長の糧として認識される。
検証可能な問い:入社二年目の社員に「主担当」として任せたプロジェクトはいくつあるか。
**【示唆】**
心理的安全性の確保は、組織づくりのスタートラインに過ぎない。その先に成長機会を設計できるかどうかが、若手の定着と活躍を左右する。優しさだけでは人は育たない。しかし、厳しさだけでは人は残らない。両者のバランスを取りながら、挑戦と学びの循環を生み出すことが、これからのマネジメントに求められる。
**【実務への含意】**
- 入社一年以内に「主担当」経験を設計し、サポート役に留めない
- フィードバックは週単位で行い、具体的な改善点を伝える仕組みを作る
- 業務を依頼する際に「なぜこの仕事が必要か」を必ず言語化して共有する
**【参考文献】**
- Z世代 マネジメント: https://www.amazon.co.jp/s?k=Z世代+マネジメント&tag=digitaro0d-22
- 心理的安全性: https://www.amazon.co.jp/s?k=心理的安全性&tag=digitaro0d-22
- 若手育成: https://www.amazon.co.jp/s?k=若手育成&tag=digitaro0d-22
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