アイキャッチ画像
ショートストーリー
休憩室の空席
総務部の村瀬洋介は、入社三年目にして初めて異動を経験した。営業企画部から経理部への配置転換。数字を扱う仕事自体に不満はなかったが、昼休みが苦痛だった。
経理部の休憩室には、毎日決まったメンバーが集まる。五人の女性社員と二人の男性社員。弁当を広げながら、社内の人事異動の噂や、上司の愚痴、週末のテレビ番組の話で盛り上がる。村瀬はその輪に入れなかった。正確に言えば、入ろうとしても話題についていけなかった。
「村瀬くんも一緒にどう?」
隣の席の吉岡さんが声をかけてくれることもあったが、輪に加わっても居心地の悪さは変わらない。話を合わせて笑い、曖昧にうなずく四十五分間は、午後の仕事より疲れた。
三週目に入った月曜日、村瀬は意を決して一人で屋上に行った。自販機で買った缶コーヒーを片手に、ビルの谷間から覗く空を見上げる。風が気持ちよかった。だが十分もすると、妙な罪悪感がせり上がってきた。
——みんなと一緒にいないのは、おかしいことなんじゃないか。
その不安を、村瀬は経理部の先輩である田所に何気なく打ち明けた。田所は五十代半ば、部内では寡黙で通っている人物だった。
「村瀬、お前はここに何しに来てる?」
田所の問いは素っ気なかった。
「仕事……ですけど」
「そうだ。仕事だ。友達をつくりに来てるわけじゃない」
田所はモニターから目を離さずに続けた。
「俺はこの会社に二十八年いるが、昼飯を誰かと食ったのは最初の三年だけだ。あとはずっと一人で食ってる」
「寂しくないですか」
「寂しいと思ったこともあった。だが、寂しいのと困るのは違う。仲間がいないと困るなら問題だが、寂しいだけなら気の持ちようだ」
村瀬はその言葉を噛みしめた。確かに、仕事で困ったとき助けてくれるのは休憩室の雑談仲間ではなく、業務上の関係者だった。営業企画部時代に親しかった同期の中島とは今でも月に一度飲みに行く。それで十分ではないか。
翌日から、村瀬は昼休みを一人で過ごすことに決めた。屋上のベンチで本を読んだり、近所の公園を散歩したりした。最初の数日は後ろめたさがあったが、一週間もすると慣れた。午後の集中力が明らかに上がった。
ある日、今となっては食事だけのために訪れるようになった休憩室で吉岡さんが困った顔をしていた。
「経費精算のシステム、また変わるんですって。マニュアル読んでも全然わからなくて……」
周囲の同僚たちは「大変だよね」「ほんと困るよね」と口々に言ったが、誰も具体的な解決策を示さなかった。共感はあっても、助けにはなっていない。
村瀬は自席に戻ってから、新システムのマニュアルを三十分かけて読み込み、要点を一枚の紙にまとめた。翌朝、吉岡さんのデスクにそれを置いた。
「村瀬くん、これ……ありがとう。すごくわかりやすい」
吉岡さんは驚いた顔をした。村瀬は軽く会釈して自分の席に戻った。
田所がちらりとこちらを見て、小さくうなずいた。
昼休み、村瀬はいつものように屋上に向かった。缶コーヒーを開けると、風が少しだけ温かくなっていた。孤立しているのではない。ただ、自分の居場所を選んだだけだ。
誰かと一緒にいることが安心なのではなく、自分が何をできるかを知っていることが、本当の支えなのかもしれない。
論考
「仲間がいない不安」の正体——進化のミスマッチと現代職場の距離感
職場に気の合う仲間がいないと感じたとき、多くの人は「自分に問題があるのではないか」と不安を覚える。この不安は根深い。なぜなら、人間は数十万年にわたる進化の過程で、集団への帰属を生存条件として刻み込んできたからだ。狩猟採集時代、集団から排除されることは死を意味した。仲間意識、裏切り者検知、公平感といった心理的モジュールは、その時代に形成された。では、この進化的遺産は現代の職場でも有効に機能しているのだろうか。
問い:あなたの職場での人間関係の悩みは、業務上の実害があるか、それとも感情的な不安にとどまっているか。
現代の多くの職場は、協力集団ではなく契約集団として機能している。割り当てられた業務を遂行し、対価として報酬を得る。この構造において、仲間意識は業務遂行の必要条件ではない。にもかかわらず、人が集まる場を見ると「仲間づくりモジュール」が自動的に起動する。これは進化と現代環境のミスマッチである。職場が協力集団のように見えるため、本来不要な帰属欲求が刺激される。
問い:あなたの職場は「協力集団」と「契約集団」のどちらに近いか。その判断基準は何か。
ただし、職場での孤立を全面的に推奨するのは危険である。チームでの協働が不可欠な業務は存在するし、心理的安全性が生産性を高めるという研究知見もある。重要なのは、「仲間が必要」という感覚が進化的な衝動なのか、業務上の実際の必要性なのかを区別することだ。感情と事実を切り分けることで、適切な距離感が見えてくる。
問い:職場の心理的安全性と、個人的な仲間意識は同じものか、異なるものか。
不安が仲間を求めさせるという構造にも注目すべきだ。新しい業務や環境変化に直面したとき、人は仲間との交流でオキシトシンを分泌し、一時的に不安を和らげる。しかし、これは対症療法に過ぎない。仲間の「大丈夫だよ」は、問題の解決には寄与しない。不安の原因を特定し、知識や準備で対処する方が持続的な効果を持つ。つまり、仲間に頼る前に、まず不安の構造を分析することが先決である。
問い:不安を感じたとき、最初に取る行動は「誰かに相談する」か「原因を調べる」か。どちらが多いか。
進化が与えた仲間意識は、現代においても完全に無用ではない。ただし、その発動条件を意識的に管理する必要がある。職場の外に信頼できるコミュニティがあれば、職場での帰属欲求は相対化できる。職場を「生活費を得る場」と割り切ることは、冷淡さではなく合理的な距離感の設定である。孤立ではなく、自律的な選択としての距離感。それが現代の職場における健全な在り方の一つだろう。
**実務への含意:**
- 職場での孤立感を覚えたら、それが業務上の実害を伴うかどうかを客観的に判定する
- 不安を感じたときは、仲間への相談より先に不安の原因の特定と情報収集を行う
- 職場外に一つ以上の帰属コミュニティを維持し、職場への過剰な期待を分散させる
### 参考文献
- 『その悩み「9割が勘違い」 科学的に不安は消せる』石川幹人(KADOKAWA)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4046045779?tag=digitaro0d-22)
- 『進化心理学入門』ジョン・H・カートライト著、鈴木光太郎・河野和明訳(新曜社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4788509539?tag=digitaro0d-22)
- 『友だち幻想』菅野仁(筑摩書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4480687807?tag=digitaro0d-22)
※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています