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ショートストーリー
見えない天秤
「前例がないんですよ」
人事部長の声が、会議室に重く響いた。
総合商社・三栄物産の経営企画室で、主任の園田真由美は思わず拳を握りしめた。隣に座る同期の木村健太が、気まずそうに視線を逸らす。
議題は、次期プロジェクトリーダーの選出だった。
真由美と健太は同期入社。十年間、同じ部署で働いてきた。実績も評価も、ほぼ互角。今回の選出は、どちらが選ばれてもおかしくなかった。
「園田さんの実績は申し分ない。でも、このプロジェクトは海外出張が多い。三十代女性の主任がリーダーというのは……」
人事部長の言葉を、真由美は黙って聞いていた。
「木村くんなら、取引先も安心するだろう。業界の慣習として、そういう配慮は必要だと思うんだ」
健太が口を開いた。
「でも、園田の方が語学力は上ですし、現地のネットワークも——」
「そういう話じゃないんだよ」
人事部長が遮った。
「普通に考えて、どちらがスムーズか、という話だ」
普通。
その言葉を聞いた瞬間、真由美の中で何かが冷えた。
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会議が終わった後、真由美は屋上の喫煙所に向かった。煙草は吸わない。ただ、一人になりたかった。
夕暮れの空を眺めていると、後ろから足音がした。
「園田」
振り返ると、健太が立っていた。
「俺は……あの決定には賛成してない」
「分かってる」
「じゃあ、なんでさっき何も言わなかったんだ」
真由美は少し笑った。
「言ったところで、何が変わるの」
健太は黙った。
「あなたが反論したら、少しは効果があるかもしれない。でも私が反論したら、『だから女は感情的だ』って言われるだけ」
「それは——」
「分かってる。あなたのせいじゃない」
真由美は空を見上げた。
「でもね、木村くん。あなたは考えたことある? なぜ『普通に考えて』の『普通』が、いつもあなたの側に有利に働くのか」
健太は答えられなかった。
「私たち、同じ仕事をしてきた。同じ成果を出してきた。なのに、選ばれるのはいつもあなた。それが『普通』だから。私はその『普通』に合わせてきた。合わせることが当然だと思ってきた」
真由美は健太を見つめた。
「でも今日、気づいたの。私が『普通』に合わせてきた十年間、あなたは一度でも『普通』を疑ったことがあった?」
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翌日の朝、健太は人事部長の部屋を訪ねた。
「木村くん、どうした」
「昨日の件で、お話があります」
健太は深呼吸をした。
「リーダーは、園田にしてください」
人事部長の表情が固まった。
「何を言ってるんだ」
「彼女の方が、このプロジェクトに適任です。語学力、現地との関係、どれを取っても」
「君、自分が何を言ってるか分かってるのか。周りから何と言われるか——」
「それは」
健太は人事部長の目を見て言った。
「『普通』の話ですよね。でも、その『普通』って、誰が決めたんですか」
人事部長は黙った。
「俺は今まで、『普通』の側にいることで得をしてきました。それに気づいてすらいなかった。でも、それって——」
言葉を探す健太に、人事部長が言った。
「言いたいことは分かった。だが、そう簡単に変えられるものじゃない」
「分かってます」
健太は頭を下げた。
「でも、誰かが言い出さないと、何も変わりません」
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結局、プロジェクトリーダーは健太に決まった。
だが、副リーダーとして真由美が指名され、海外出張の多くは彼女が担当することになった。完全な解決ではない。でも、何かが少しだけ動いた。
数日後、真由美は健太に声をかけた。
「あの日、人事部長に何か言ったんでしょ」
「……なんで分かるんだ」
「あの人、私を見る目が少し変わった。困惑してるけど、軽視はしてない」
健太は苦笑した。
「大したことはしてない。俺も結局、リーダーを受けたわけだし」
「それでいいの」
真由美は言った。
「完璧な答えなんかない。大事なのは、『普通』を疑えたこと。それだけで、天秤は少しだけ動く」
窓の外では、夕日が街を照らしていた。
「次は、私が声を上げる番かもね」
真由美はそう言って、微笑んだ。
見えない天秤は、まだ傾いたままだ。でも、少しずつ——本当に少しずつだが——揺れ始めている。
論考
「普通」という見えない権力――対等な関係を阻むもの
### 序
組織や人間関係において、「普通はこうだ」「常識的に考えて」という言葉は強力な影響力を持つ。この「普通」という概念は、一見中立的に見えるが、実際には特定の立場に有利に働く構造を内包している。同じ主張をしても、「普通」の側にいる人間と、そこから外れた人間では、受け取られ方がまったく異なる。この非対称性こそが、本来対等であるべき関係において、一方に不当な負担を強いる原因となっている。
**検証可能な問い:「普通」という言葉は、どのような場面で、誰に対して、どのような効果を発揮しているのか?**
### 展開
「普通」から外れた選択をする人には、説明責任が求められる。なぜそうしたのか、どういう事情があるのか。一方、「普通」に従う人には説明は不要である。これは無意識のうちに、「普通」を選ばない人を異端として位置づける構造である。
さらに問題なのは、「普通」に従うことで生じる負担が当然視され、軽視されることである。長年その負担を一方的に負わされてきた側にとって、それは決して軽いものではない。しかし、「みんなそうしている」という理由で、その苦痛は可視化されにくい。同じ負担を「普通」の側の人間が負うことになったとき初めて、その重さが認識されることがある。
**検証可能な問い:「普通」に従う側の負担は、どの程度可視化され、評価されているのか?**
### 反証
ただし、「普通」を変えようとする主張にも限界がある。「自分の側に合わせてほしい」という要求は、相手に負担を押し付けることと表裏一体だという批判は成り立つ。また、社会全体の慣習を個人の交渉で変えることには限界がある。制度が変わらなければ、結局は誰かが不利益を被る構造は残る。
しかし、この反論は重要な点を見落としている。問題は「誰が負担するか」ではなく、「なぜその負担が一方に偏っているのか」を問うことなく受け入れてきた構造そのものにある。「普通」を疑うことは、負担の押し付け合いではなく、負担の偏りを可視化する第一歩である。
**検証可能な問い:「普通」への異議申し立ては、どのような条件下で建設的な対話につながるのか?**
### 再構成
対等な関係を築くためには、「普通」の側にいる人間が自らの立場を自覚することが不可欠である。自分が「普通」の側にいることで得ている利益は、往々にして見えにくい。それに気づかないまま「フラットな話し合い」をしようとしても、出発点がすでに傾いている。
重要なのは、制度の改善と意識の変革を同時に進めることである。制度だけが変わっても、「周りからどう見られるか」という圧力が残れば、実質的な選択の自由は制限される。逆に、意識が変わっても制度が追いつかなければ、変化は個人の努力に依存し続ける。両輪で取り組むことで初めて、持続的な変化が可能になる。
**検証可能な問い:制度の変化と意識の変化は、どちらが先行すべきか、それとも同時に進むべきか?**
### 示唆
「普通」という言葉の陰で、誰かが強いられている苦痛を見えないままにしておくことは、組織や社会にとって損失である。多様な視点を活かすためには、「普通」を疑い、見えない天秤の傾きに気づく必要がある。
変化は、「普通」の側にいる人間が声を上げることから始まることもある。その声は、外部からの批判よりも内部からの問題提起として受け止められやすい。完璧な解決は難しくても、天秤を少しずつ動かすことはできる。その小さな積み重ねが、やがて「普通」の定義そのものを更新していく。
**検証可能な問い:組織内で「普通」を問い直す動きは、どのような条件下で持続的な変化につながるのか?**
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### 実務への含意
- **リーダー・管理職向け**:「前例がない」「普通はこうだ」という言葉を使う前に、その「普通」が誰に有利に働いているかを点検する。意思決定の場で多様な視点が反映されているかを確認する
- **人事・制度設計者向け**:制度の変更だけでなく、その制度が運用される際の「空気」や「暗黙の期待」にも注意を払う。制度の利用者が心理的な障壁なく選択できる環境を整える
- **個人・チームメンバー向け**:自分が「普通」の側にいるときこそ、その「普通」を疑う視点を持つ。声を上げにくい立場の人の代わりに問題提起することも、対等な関係構築の一歩となる
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### 参考文献
- 『多様性の科学』マシュー・サイド(ディスカヴァー・トゥエンティワン)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4799327526?tag=digitaro0d-22)
- 『「アンコンシャス・バイアス」マネジメント』守屋智敬(かんき出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4761274204?tag=digitaro0d-22)
- 『ハーバード流交渉術』ロジャー・フィッシャー(三笠書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4837957323?tag=digitaro0d-22)
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