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ショートストーリー
冷蔵庫に貼られた数字
「中学受験をしたい」
小学五年生の美咲がそう言い出したのは、夕食の片付けをしている最中だった。
中堅メーカーで営業部長を務める山本健一は、思わず手を止めた。妻の恵子も、食器洗いの手を止めてこちらを見ている。
「友達のあかりちゃんが塾に行き始めて、すごく楽しそうなの」
美咲の瞳は輝いていた。その隣で、小学三年生の妹の結衣が不安そうに姉を見上げている。
健一は恵子と目を合わせた。中学受験。調べなくても、それがどれだけお金がかかるか、なんとなくは想像がついた。
その夜、子どもたちを寝かしつけた後、健一と恵子はリビングで向き合った。テーブルの上には、通帳と電卓が置かれている。
「百十万……」
恵子が小さく呟いた。それが、山本家の全財産だった。
健一の年収は七百万円を超えている。決して少なくはない。なのに、なぜこれだけしか貯まっていないのか。
「俺のせいだ」
健一は頭を抱えた。若い頃、収入が不安定で家族に我慢ばかりさせてきた。だから少し余裕ができると、つい財布の紐が緩んでしまう。家族が喜ぶ顔が見たくて、旅行や外食にお金を使った。
「私も……」恵子が言葉を詰まらせた。「良いものを買えば家族のためになると思って。でも、結局は自分の満足だったのかもしれない」
沈黙が落ちた。
「無理だよな」健一が言った。「塾代だけで百万以上。入学金やら制服やら……」
「美咲に、どう言えばいいかしら」
恵子の声が震えていた。
その時、廊下から物音がした。振り返ると、パジャマ姿の美咲が立っていた。
「ごめんなさい……」
目に涙を溜めて、美咲は言った。
「私、わがまま言った。お金がないのに……」
健一は立ち上がり、美咲の頭を撫でた。
「お前のせいじゃない。お父さんとお母さんが、ちゃんとしてなかっただけだ」
その言葉を口にした瞬間、健一の中で何かが変わった。
「でも、これから変わる」
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翌週の日曜日、山本家は初めての「マネー会議」を開いた。
「これが、うちの家計だ」
健一はホワイトボードに数字を書き出した。収入、支出、そして残高。すべてを隠さず、家族全員で共有した。
「私立中学に行くには、これだけお金がかかる」
恵子が調べた金額を読み上げる。塾代、受験費用、入学金、制服代、そして毎月の学費。美咲の顔がこわばった。
「でも、諦めなくていい」健一は言った。「みんなで協力すれば、なんとかなるかもしれない」
結衣が手を挙げた。
「私、何かできる?」
「もちろんだ」健一は微笑んだ。「お母さんの買い物を手伝って、予算を超えそうになったら教えてくれ」
「うん!」
その日から、山本家は変わり始めた。
恵子は冷蔵庫に「今月の食費予算」を貼り出した。買い物に行くたび、結衣がその数字をチェックする。「お母さん、あと三千円しかないよ!」という声が、家の中で響くようになった。
健一は、長年溜め込んでいた趣味のコレクションを整理し始めた。使っていないゴルフクラブ、読み返すことのない本、若い頃に買ったブランド物。一つひとつ手放すたびに、不思議と心が軽くなった。
美咲は勉強に励んだ。家族がこれだけ協力してくれている。その思いが、彼女を机に向かわせた。
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一年が過ぎた頃、健一は小さな変化に気づいた。
以前は給料日前になると憂鬱だった。今月も足りないのではないか、という不安。それがいつの間にか消えていた。
「今月、三万円残ったよ」
恵子が嬉しそうに報告した。
三万円。以前の自分なら、「たったそれだけ」と思っただろう。でも今は違う。その三万円が、確かな手応えとして感じられた。
二年目から、山本家は積立投資を始めた。月三千円から。決して大きな金額ではない。でも、それが少しずつ増えていく様子を見るのは、思いのほか楽しかった。
「お父さん、見て!」
結衣が嬉しそうに冷蔵庫を指さした。そこには「達成!」と書かれた付箋が貼られていた。今月も黒字で終わった印だ。
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八年後。
美咲は私立中学を卒業し、今は大学生になっている。結衣も高校二年生だ。
リビングのテーブルで、健一は通帳を眺めていた。
千二百三十万円。
あの日、百十万円だった貯金が、ここまで増えた。特別なことは何もしていない。毎月の収支を管理し、少しずつ貯め、余裕ができたら投資に回す。それを八年間、愚直に続けただけだ。
「ねえ、お父さん」
大学から帰ってきた美咲が、隣に座った。
「あの時、私がわがまま言わなかったら、どうなってたと思う?」
健一は少し考えて、首を振った。
「たぶん、今も百万円のままだっただろうな」
「え?」
「お前のおかげで、俺たちは目が覚めたんだ」
健一は窓の外を見た。夕日が街を橙色に染めている。
「当たり前のことを、当たり前にやる。それが一番難しくて、一番大事なんだ」
冷蔵庫には、今も予算表が貼られている。
もう必要ないのかもしれない。でも、山本家の誰も、それを剥がそうとはしなかった。
論考
家計再生の三位一体――「当たり前」を続ける力
### 序
資産を増やす方法は、突き詰めれば三つしかない。「働いて増やす」「節約で増やす」「運用で増やす」である。これは古今東西変わらない原則であり、どれほど金融技術が発達しても、この基本構造は揺るがない。問題は、この単純な事実を知っていながら、なぜ多くの人が実行できないのかという点にある。
**検証可能な問い:資産形成の原則を「知っている」ことと「実行できる」ことの間には、どのような障壁が存在するのか?**
### 展開
貯められない家計には二つのタイプがある。一つは「浪費型」、もう一つは「不況型」である。浪費型は、収入があるにもかかわらず支出をコントロールできない状態を指す。その背景には、ストレス解消としての消費、情報や流行への過度な反応、過去の我慢への反動など、複合的な要因がある。
一方、不況型は収入そのものが不足している状態であり、節約だけでは根本的な解決にならない。経済環境の変化によって収入が減少すると、やりくりの余地が限られ、最悪の場合は借入に頼らざるを得なくなる。この二つのタイプを区別することが、適切な対策を講じる第一歩となる。
**検証可能な問い:浪費型と不況型では、家計改善のアプローチはどのように異なるべきか?**
### 反証
ただし、家計改善を「節約」だけで捉えるのは不十分である。従来、多くの人は節約に偏重してきた。副業が制限されていた時代、投資には高い参入障壁があった時代には、それが現実的な選択だった。しかし、働き方の多様化と投資環境の整備が進んだ現在、節約一辺倒のアプローチには限界がある。
また、将来への不安から過度にリスクを取る行動も危険である。ハイリスクな投機に手を出して失敗すれば、状況はさらに悪化する。家計改善には、焦らず基本に忠実であることが求められる。
**検証可能な問い:投資の参入障壁が下がったことは、家計改善にどのような影響を与えているか?**
### 再構成
効果的な家計再生には、三つの要素をバランスよく組み合わせることが必要である。まず収支を可視化し、支出を「消費」「浪費」「投資」に分類する。次に、毎月の黒字化を目標として支出を管理する。そして、余裕資金ができたら少額から積立投資を始める。
重要なのは、この過程を個人の努力だけでなく、家族全体の取り組みとして位置づけることである。家計の状況を家族で共有し、共通の目標を設定することで、行動変容が促進される。子どもも含めた「マネー会議」の実施は、家計管理を「見える化」するだけでなく、家族の結束を強める効果もある。
**検証可能な問い:家計管理への家族参加は、貯蓄率の向上にどの程度寄与するか?**
### 示唆
家計改善の本質は、特別なテクニックではなく、当たり前のことを当たり前に続ける力にある。収入の範囲内で生活し、少しでも余ったら貯蓄し、余裕ができたら運用に回す。この単純なサイクルを、愚直に継続できるかどうかが成否を分ける。
小さな行動の積み重ねが、やがて大きな変化を生む。一日一日の選択は些細に見えても、それが八年、十年と続けば、結果は劇的に異なる。不確実性の高い時代だからこそ、自分でコントロールできる領域で着実に行動することが、将来の安心につながる。
**検証可能な問い:家計改善における「継続」の効果は、何年程度で顕著に現れるか?**
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### 実務への含意
- **個人・家庭向け**:まず家計の現状を「見える化」し、収支を家族で共有する。黒字化を最優先目標として、少額からでも貯蓄習慣を確立する
- **管理職・経営者向け**:従業員の金融リテラシー向上は、生産性やエンゲージメントにも影響する。福利厚生の一環として、家計管理や資産形成の教育機会を提供することを検討する
- **教育者・支援者向け**:家計改善は知識の問題ではなく行動の問題である。情報提供だけでなく、継続を支援する仕組みや、成功体験を共有できるコミュニティの構築が効果的
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### 参考文献
- 『はじめての人のための3000円投資生活』横山光昭(アスコム)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/477620911X?tag=digitaro0d-22)
- 『ジェームズ・クリアー式 複利で伸びる1つの習慣』ジェームズ・クリアー(パンローリング)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4775942158?tag=digitaro0d-22)
- 『バビロンの大富豪』ジョージ・S・クレイソン(グスコー出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4901423126?tag=digitaro0d-22)
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