アイキャッチ画像

アイキャッチ画像

ショートストーリー

縦書き

十二階の窓

三ツ輪工機の本社十二階、会議室「桐」の窓は、建てられた日から同じ角度までしか開かない。鹿野俊介は、その細い隙間から入る風を背中に受けて、社長の板東と向かい合っていた。 「鹿野くん。うちの売り場は、この三十年で何が変わった」 「……厨房機器そのものは、ずいぶん良くなりました。洗浄機の水量は半分以下に」 「機械の話じゃない。売り方だ」 鹿野は黙った。カタログがあり、代理店があり、見積があり、据付があり、五年後にまた見積がある。三十年、そこは一ミリも動いていない。 「壊してこい」と板東は言った。「ただし、ここではやるな。三ツ輪リースへ出向だ。来月から」 金融子会社への異動。社内では、役職定年の一歩手前と見なされている行き先だった。鹿野はその夜、駅までの道を歩きながら、自分は追い出されたのかもしれない、と思った。 三ツ輪リースの隅に机を四つ並べて、鹿野の部隊は始まった。構想は単純だった。厨房機器を売らない。月額で貸す。保守も消耗品も込みにして、壊れれば翌日に載せ替える。飲食店の店主が開業時に背負う数百万円を、毎月の数万円に変える。それだけだった。 問題は、その単純さを本社が理解しないことだった。 「つまり君は、うちの主力商品を買わないほうがいい、と言うわけだ」 営業本部長の海堂は、企画書を一枚めくっただけで顔を上げた。 「買わないほうがいい、とは言っていません。買えない人がいる、と言っています」 「同じことだ。代理店がどう思う。三十年、頭を下げて回ってくれた人たちだぞ」 海堂の言い分は正しかった。正しいから、鹿野は反論できなかった。正しさというのはたいてい、昨日までの正しさとして立派に機能する。 半年後、広告代理店から上がってきた案を見て、部下の宮下が息を呑んだ。 ――その厨房、まだ買うんですか。 「これは通らないです」と宮下は言った。「本社の商品本部が絶対に止めます」 鹿野はその一行を長いこと見ていた。喧嘩を売る相手は競合ではない。自分を育てた会社だった。 「見せなければ、止められない」 「……本気ですか」 「ここは三ツ輪リースだ。広告の決裁は、うちで完結する」 規程上は正しかった。正しいというだけで褒められる行為ではないことも、分かっていた。 広告が流れた週、本社の代表番号に十七件の問い合わせが入った。うち九件は代理店からで、内容はほぼ同じだった。あれは何のつもりか。海堂からの内線は、鹿野が身構えていたよりずっと静かだった。 「聞いてないぞ」 「はい」 「……それだけか」 「畳むときは二年で畳みます。三ツ輪リースの単年度予算の、一・二パーセントです。誰も傷つきません」 電話の向こうで、紙をめくる音がした。 「一・二パーセントか」 「はい」 「本体でやったら、承認に二年かかる額だな」 それきり、海堂は何も言わずに切った。 一年が過ぎた。契約は四百八十件。会社全体から見れば小数点以下の数字だった。ただ、内訳が奇妙だった。契約者の三割が、これまで三ツ輪の見積書を一度も受け取ったことのない店だったのだ。新規開業、二店舗目、移動販売から実店舗へ移る人たち。代理店が回りようのなかった層である。 その数字を持って、鹿野は十二階の「桐」に戻った。板東はしばらく資料を見て、それから言った。 「代理店に、この三割を渡す方法を考えろ」 「渡す、ですか」 「取ったものを守ろうとするな。守り始めた瞬間に、君も十二階の人間になる」 鹿野は窓を見た。同じ角度までしか開かない、あの窓を。 「その窓な」と板東が言った。「安全基準で決まってる。十二階から落ちたら死ぬからだ。当たり前の話だろう」 「……はい」 「だが君の部屋の窓は、十二階にはない。三階だ」 会議室を出て、廊下の空気に触れたとき、鹿野はようやく気づいた。自分は追い出されたのではなく、下ろされたのだ。

論考

縦書き

慎重さは、リスクの大きさに比例させる

大企業では新しい事業は生まれない、とよく言われる。だがこの命題は、原因の指摘としては粗い。大企業に不足しているのは資金でも人材でもアイデアでもなく、「どこまで慎重になるか」を案件ごとに調整する能力である。組織が身につけた慎重さは、成熟事業を守るために最適化されている。その同じ物差しを、まだ十分の一の規模にも達しない新規事業に当てると、判断の精度ではなく判断の遅さだけが再現される。――あなたの組織の稟議プロセスは、想定最大損失額に応じて段階が変わる設計になっているか。 慎重さの総量ではなく、その配分が問題だと考えると、見え方が変わる。数百億円規模の設備投資に何重もの検証が入るのは当然であり、むしろ健全である。問題は、失敗しても二、三年で畳める程度の小さな試みにまで、同じ検証の網がかかることだ。検証には時間という費用がかかる。損失の上限が小さい案件で慎重さを最大化すると、期待できる利益より、意思決定に費やした時間のほうが高くつく。――直近に社内で却下された新規案件について、想定最大損失額と、審議に費やされた延べ人時を並べて比べたことがあるか。 もっとも、「小さいから自由にやらせろ」という主張は、しばしば放埒の口実にもなる。新規事業の損失は帳簿上の金額だけでは測れない。既存の販売チャネルとの摩擦、長年の取引先が抱く不信、ブランドが積み上げた約束の毀損は、事業規模とは無関係に本体へ波及する。自社の主力商品を否定するような打ち出しは、数字の上では一パーセントの賭けでも、関係資本の上では一パーセントで済まない。ネガティブチェックの多くは、この見えない勘定を守るために存在している。――あなたの新規事業が最悪の形で失敗したとき、失われるものを金額以外の項目で三つ挙げられるか。 したがって必要なのは、検証を外すことではなく、検証の置き場所を移すことである。成功している分離のかたちには、二つの条件が揃っている。第一に、意思決定が本体の外で完結する構造。第二に、最終的には本体の最上位が味方につくという、当事者だけが知っている暗黙の保証。距離だけがあって保証がなければ、新組織は孤立して兵糧が尽きる。保証だけがあって距離がなければ、新組織は本体の常識に呑まれて凡庸になる。両方が要る。――あなたの新規事業には、本体の誰が最後の盾になるのかが、書面ではなく本人同士の間で明確になっているか。 そしてもう一つ。既存事業を否定するように見える事業が、本当に既存顧客を奪っているのかは、数字で確かめられる。新しい売り方が届いた相手が、これまで自社の見積書を受け取ったことのない層であれば、それは共食いではなく市場の拡張である。この区別を早い段階でデータとして示せるかどうかが、社内の敵意を協力に変える分岐点になる。――新規事業の顧客のうち、既存チャネルの顧客台帳に載っていない比率を、月次で把握できているか。 ## 実務への含意 - 稟議の階層を「案件の重要度」ではなく「想定最大損失額」で切り直す。畳むコストが年間予算の数パーセント以内に収まる案件には、簡略な決裁ルートを制度として用意する。 - 新規事業を本体から分離するときは、意思決定権限の移譲と、本体最上位の後ろ盾を必ずセットで設計する。片方だけの分離は、孤立か埋没のどちらかで終わる。 - 立ち上げ初期から「既存顧客台帳との重複率」を主要指標に置き、共食いか市場拡張かを数字で語れるようにしておく。社内の反発は、論争ではなく内訳で解く。 ### 参考文献 - 『イノベーションのジレンマ』クレイトン・クリステンセン(翔泳社) - 『両利きの経営』チャールズ・A・オライリー、マイケル・L・タッシュマン(東洋経済新報社) - 『リーン・スタートアップ』エリック・リース(日経BP)

ハッシュタグ