ショートストーリー
十二階の窓
論考
慎重さは、リスクの大きさに比例させる
大企業では新しい事業は生まれない、とよく言われる。だがこの命題は、原因の指摘としては粗い。大企業に不足しているのは資金でも人材でもアイデアでもなく、「どこまで慎重になるか」を案件ごとに調整する能力である。組織が身につけた慎重さは、成熟事業を守るために最適化されている。その同じ物差しを、まだ十分の一の規模にも達しない新規事業に当てると、判断の精度ではなく判断の遅さだけが再現される。――あなたの組織の稟議プロセスは、想定最大損失額に応じて段階が変わる設計になっているか。
慎重さの総量ではなく、その配分が問題だと考えると、見え方が変わる。数百億円規模の設備投資に何重もの検証が入るのは当然であり、むしろ健全である。問題は、失敗しても二、三年で畳める程度の小さな試みにまで、同じ検証の網がかかることだ。検証には時間という費用がかかる。損失の上限が小さい案件で慎重さを最大化すると、期待できる利益より、意思決定に費やした時間のほうが高くつく。――直近に社内で却下された新規案件について、想定最大損失額と、審議に費やされた延べ人時を並べて比べたことがあるか。
もっとも、「小さいから自由にやらせろ」という主張は、しばしば放埒の口実にもなる。新規事業の損失は帳簿上の金額だけでは測れない。既存の販売チャネルとの摩擦、長年の取引先が抱く不信、ブランドが積み上げた約束の毀損は、事業規模とは無関係に本体へ波及する。自社の主力商品を否定するような打ち出しは、数字の上では一パーセントの賭けでも、関係資本の上では一パーセントで済まない。ネガティブチェックの多くは、この見えない勘定を守るために存在している。――あなたの新規事業が最悪の形で失敗したとき、失われるものを金額以外の項目で三つ挙げられるか。
したがって必要なのは、検証を外すことではなく、検証の置き場所を移すことである。成功している分離のかたちには、二つの条件が揃っている。第一に、意思決定が本体の外で完結する構造。第二に、最終的には本体の最上位が味方につくという、当事者だけが知っている暗黙の保証。距離だけがあって保証がなければ、新組織は孤立して兵糧が尽きる。保証だけがあって距離がなければ、新組織は本体の常識に呑まれて凡庸になる。両方が要る。――あなたの新規事業には、本体の誰が最後の盾になるのかが、書面ではなく本人同士の間で明確になっているか。
そしてもう一つ。既存事業を否定するように見える事業が、本当に既存顧客を奪っているのかは、数字で確かめられる。新しい売り方が届いた相手が、これまで自社の見積書を受け取ったことのない層であれば、それは共食いではなく市場の拡張である。この区別を早い段階でデータとして示せるかどうかが、社内の敵意を協力に変える分岐点になる。――新規事業の顧客のうち、既存チャネルの顧客台帳に載っていない比率を、月次で把握できているか。
実務への含意
- 稟議の階層を「案件の重要度」ではなく「想定最大損失額」で切り直す。畳むコストが年間予算の数パーセント以内に収まる案件には、簡略な決裁ルートを制度として用意する。
- 新規事業を本体から分離するときは、意思決定権限の移譲と、本体最上位の後ろ盾を必ずセットで設計する。片方だけの分離は、孤立か埋没のどちらかで終わる。
- 立ち上げ初期から「既存顧客台帳との重複率」を主要指標に置き、共食いか市場拡張かを数字で語れるようにしておく。社内の反発は、論争ではなく内訳で解く。
参考文献
- 『イノベーションのジレンマ』クレイトン・クリステンセン(翔泳社)
- 『両利きの経営』チャールズ・A・オライリー、マイケル・L・タッシュマン(東洋経済新報社)
- 『リーン・スタートアップ』エリック・リース(日経BP)