アイキャッチ画像
ショートストーリー
保留ボタンの外れる音
中堅の食品メーカー「みなも食品」の企画課で、佐久間結衣はもう七年、同じ机に座っていた。
仕事は、悪くなかった。定番のふりかけと佃煮を扱う部署は、売上が大きく伸びることもない代わりに、落ち込むこともない。上司の田添課長は穏やかで、残業も少なく、同期からは「いい部署に当たったね」と言われる。給料はまあまあ、不満も、特にない。
ただ、結衣には三年前から温めている企画書があった。地方の小さな漁港と組み、規格外で値のつかない魚を使った新しい常温食品をつくる――「もったいない」を商品に変える、という案だ。試作までは自分で何度も重ねた。味には自信があった。
それでも、提案ボタンは押せずにいた。
「もう少し市場データを集めてから」「来期の体制が固まってから」「課長の機嫌のいいタイミングで」。理由はいつでも見つかった。理由が見つかるたびに、結衣は少しほっとした。出さなければ、断られることもない。企画書はフォルダの中で、いつまでも「いつかやる」の姿のまま、きれいに眠っていた。
転機は、唐突に外からやってきた。主力取引先だった大手スーパーが、自社ブランド品への切り替えを一斉に進め、みなも食品の定番棚が、半分に削られることが決まったのだ。揺らがないはずだった「そこそこ」の数字が、足元から崩れはじめた。
緊急の企画会議で、田添課長は珍しく硬い声で言った。「既存商品の延命策、誰か案はあるか」
会議室が沈黙した。みんな、これまで通りのやり方の中で、これまで通りの答えを探していた。結衣の鞄の中には、あの企画書があった。三年分、温めてきたものが。
手のひらが汗ばんだ。今出せば、「なぜもっと早く」と言われるかもしれない。データはまだ完璧じゃない。漁港との交渉も、これからだ。頭の中で、いつもの保留ボタンに指が伸びる。「もう少し、整えてからのほうが――」
そのとき、ふと気づいた。自分はずっと、より良いタイミングという名の、別の可能性を手放せずにいただけだ、と。完璧な瞬間を待つことは、何も決めないことを決め続けることだった。
結衣は鞄を開けた。「課長。延命ではないんですが、ひとつ、出させてください」
田添はしばらく企画書を見つめ、それから結衣を見た。「これ、いつから持ってた」「……三年です」課長は短く息を吐いて、少し笑った。「もったいないな。魚も、お前も」
企画はすぐには通らなかった。役員会で二度差し戻され、漁港との交渉も難航した。それでも、一度「出す」と決めてしまえば、結衣の動きは速かった。迷う時間を、自分に与えなくなったからだ。
半年後、規格外の魚を使った小さな新商品が、まず三店舗の棚に並んだ。爆発的な数字ではない。けれど結衣の朝は、確かに変わった。明日は何の連絡が来るだろう、と思いながら目を覚ます朝が、戻ってきていた。
保留ボタンは、押し続ける限り何も壊さない。同時に、何も生まないのだった。
論考
「決めない」という決断を、いつ断ち切るか
人がなかなか動けないのは、選択肢が少ないからではなく、多すぎるからだ。より良い条件、より確かなタイミング、より高い実力。それらの「まだ手放したくない可能性」を抱えている限り、人は現状という安全な場所にとどまり続ける。決断とは、何かを選ぶ行為であると同時に、選ばなかった他のすべてを断ち切る行為でもある。重いのは前者ではなく、後者のほうだ。あなたが先送りにしている決断は、選ぶのが難しいのか、それとも捨てるのが惜しいのか。
ここで一つの逆説が生まれる。安定とは、リスクを取らない状態ではなく、「決めない」というリスクを毎日少しずつ取り続けている状態だ、ということである。投資をしなければ財産は減らないが、増えもしない。それと同じように、保留を続ける限り、私たちは失敗もしない代わりに、何も得ない。現状維持は静止ではなく、緩やかな後退に近い。周囲が変化する中で同じ場所にとどまることは、相対的に位置を下げることを意味するからだ。あなたが守っている「そこそこ」は、本当に守る価値のある資産だろうか。
もっとも、ここには反証もある。すべての先送りが悪いわけではない。情報が決定的に不足している局面では、性急な決断はむしろ有害だ。優れた意思決定者は、決めるべき時と待つべき時を見分けている。問題は「待つこと」そのものではなく、待つことが目的化し、いつまで待つのかという期限すら決めていない点にある。先送りが戦略なのか、それとも恐怖の言い換えなのかを、どうすれば自分で見分けられるだろうか。
ならば必要なのは、勇気そのものより、決断を速くする「基準」だ。何を最優先するのかという価値観が明確であれば、選択は驚くほど単純になる。「これは自分が本当にやりたいことに近づくか」という問いに照らせば、迷う時間は大幅に削れる。即断とは無謀さではなく、判断軸が定まっていることの結果である。逆に言えば、決められないのは意志が弱いからではなく、自分の優先順位を言語化していないからだ。あなたは、自分の判断基準を一文で言えるだろうか。
そして決断には、しばしば外圧という引き金がいる。環境が大きく揺らいだとき、人は否応なく「断つ」ことを迫られる。それは不運に見えて、実は機会でもある。守るべきものが崩れた瞬間、これまで手放せなかった可能性が、自然と手から落ちるからだ。変化を待ってから動くのではなく、変化を「決める」ことの口実として使う。その転換ができる人だけが、予測不能な事態を恐れずに済むようになる。次に状況が大きく動いたとき、あなたはそれを脅威と呼ぶか、合図と呼ぶか。
実務への含意:
- 先送りしている案件について、「決めるのが難しいのか、捨てるのが惜しいのか」を切り分けて書き出す。
- 待つと判断する場合は、必ず「いつまで待つか」の期限と、その時点の判断基準を同時に決めておく。
- 自分の優先順位を一文に言語化し、迷ったときはその一文に照らして即断する習慣をつける。
### 参考文献
- 『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎・古賀史健(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478025819?tag=digitaro0d-22)
- 『エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする』グレッグ・マキューン(かんき出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4761270438?tag=digitaro0d-22)
- 『完訳 7つの習慣 人格主義の回復』スティーブン・R・コヴィー(キングベアー出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4863940246?tag=digitaro0d-22)
※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています