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ショートストーリー
誰の時間か
村田誠一は、仕事ができる男として知られていた。
食品メーカーのマーケティング部で十五年、一度も大きな失敗をしたことがなかった。上司の意図を素早く汲み、数字を積み上げ、社内外の調整を丁寧にこなしてきた。三十代後半にはグループリーダーの肩書を得て、評価シートには毎年「安定感がある」と書かれた。悪くはない。悪くはないのだが、ここ一、二年、胸に空洞のようなものを感じていた。仕事はできている。でも、やっている感じがしない。なぜかはわからなかった。
ある水曜の朝、窓の外を眺めながらコーヒーを飲んでいると、携帯が鳴った。元同僚の松本からだった。
松本は三年前に退職し、マーケティングコンサルタントとして独立した人間だ。収入に波があると聞いていたが、会うたびに妙に生き生きしていた。「久しぶり。今日ランチどう?」
駅前のカフェで落ち合うと、松本は少し疲れた顔をしていたが、目の奥が澄んでいた。近況を話すうちに、村田はぽつりと言った。
「今、新製品のプロモーション企画を担当しててさ。でも、上に持っていくたびに修正が入って、委員会を通すたびに骨格が変わって、最終的には自分が最初に考えたものとほとんど別物になる」
「任された、っていう話だったけど、それって、任されてなくない?」
村田は答えに詰まった。
松本は続けた。「俺、今クライアントが三社あって、先週は土日も仕事したよ。しんどかった。でも、不思議なことに嫌じゃなかった。なんでだろうって、自分でも考えるんだけど」
「なんで?」
「全部、俺が決めてるからかな。やるかやらないか。どうやるか。いつやるか。クライアントとは一緒に方向性を作るから、戻ってくることがほとんどない。だから、しんどくても『やらされてる感』がない」
仕事の内容じゃないんだ、と村田は思った。難しいかどうかでも、忙しいかどうかでもない。
その日の午後、会社に戻った村田は、いつもと少し違う動き方をした。
上司へ根回しをする前に、関係する隣の部署の担当者を直接会議室に呼んだ。「承認は後でいい、まず現場の感触を聞かせてくれ」そう言った瞬間、担当者が少し驚いた顔をしたが、資料を読んで「正直、これまで見せてもらったどの案より好きです」と言った。
書類上は何も変わっていない。会社の構造は一ミリも変わっていない。
それでも村田は、その一瞬だけ、仕事の感触が変わったのを感じた。
命令を待って動いたのではなく、自分が口火を切った。ただそれだけのことで、同じ職場の、同じ机の上の仕事が、少しだけ「自分の仕事」になった気がした。
帰りの電車の中で、村田は松本との会話を思い返した。
やらされる仕事と、やる仕事。違いは難易度ではない。内容でもない。誰が最初に動くか。それだけかもしれない。そして、たったそれだけのことが、仕事の重さをこれほど変えることに、村田は少しだけ驚いていた。
論考
仕事が重くなるのはなぜか——「自己所有感」という視点
仕事が重くなるのはなぜか——「自己所有感」という視点
「同じ仕事なのに、状況によってこれほど感触が違うのはなぜか」と感じたことはないだろうか。膨大な量でも苦にならない日があれば、些細な作業でも億劫な日がある。これは根性の問題でも、やる気の問題でもない。仕事の「重さ」は、内容や量よりも、まったく別の要因によって左右されている。それは「誰が決めているか」という次元だ。
**検証可能な問い**: あなたが最近こなした仕事のうち、「やった」と感じたものと「やらされた」と感じたものは、何が違ったか?
働き方を巡る議論は長らく「何をするか」に集中してきた。やりがいのある職種、成長できる環境、報酬水準。しかし見落とされがちな視点がある。それは「誰が最初に動くか」という決定権の問題だ。
社会哲学の文脈では、ジョン・ロックが「人は自分自身の所有者である」という自己所有論を展開した。この前提は近代社会の根幹をなす。自由主義も労働権も、「個人は自分の時間と選択を所有している」という建前の上に成立している。しかし雇用関係の実態を見ると、話は複雑になる。会社員は毎週一定時間、自分の時間の「使用権」を組織に譲渡する契約を結んでいる。指示系統の中で動く限り、最終的な決定権は自分にない。たとえ意欲的に取り組んでいても、「承認された選択肢の中から動いている」状態に留まる。この「自己所有感の構造的な喪失」こそが、働くことへの根源的な重さの正体ではないか。
**検証可能な問い**: あなたの職場で、直近一週間に「自分が決断した」と感じられた場面はいくつあったか?
もちろん、主体性だけが全てではない。独立して自らビジネスを営む人でも、苦手な取引先との交渉や締め切りのプレッシャーで疲弊することはある。自分で選んだ仕事であっても、困難な局面は必ず生じる。また、組織の決定に従うことを自ら選んで受け入れている人もいる。安定した収入、チームの一体感、明確な役割分担。それらを高く評価する価値観では、時間の譲渡は苦悩ではなく合理的な取引として機能する。
**検証可能な問い**: 組織の決定に従うことで、あなたが実際に手に入れているものは何か?
ここで、もう一つの補助概念が重要になる。「逃げ場の構造」だ。自己所有感の喪失に加えて、会社員が感じる重さを構造的に説明するものがある。それは「断れない」という事実だ。嫌な仕事も、合わない上司も、明日もそこへ行かなければならない。逃げ場が構造的に存在しない。一方、独立している人のしんどさは、同じ「しんどさ」でも質が違う。たとえ土日を費やすような状況でも、「次から断れる」という可能性が常に存在する。逃げ場があることを知っていると、同じ重さが「選んで引き受けている重さ」に変わる。
**検証可能な問い**: 今の仕事を仮に「明日から断れる」と想定したとき、取り組む感覚に変化はあるか?
重要なのは、構造を丸ごと変えることだけが解決策ではない、という点だ。「どのやり方でやるか」「誰に最初に見せるか」「いつ取りかかるか」——そうした細部の決定権を意識的に手元に残すだけで、同じ仕事の手触りが変わることがある。仕事の内容ではなく、「最初に動くのが自分かどうか」。その一点が、働くことの意味を根本的に変えうる。
**実務への含意**
- 仕事の「やりがい」を問う前に、「誰が決めているか」を問え。意欲の問題に見えることの多くは、決定権の問題である。
- 部下や同僚に「任せる」ときは、「何をするか」だけでなく「どうやるかも含めて」委ねる。自己所有感を持てる仕事は、エネルギーの質が変わる。
- 構造を変えられない場合でも、仕事の中に「自分が口火を切る瞬間」を一つ作ることで、主体感は部分的に回復できる。
### 参考文献
- 『モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか』ダニエル・ピンク、大前研一訳(講談社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4062144492?tag=digitaro0d-22)
- 『自分の仕事をつくる』西村佳哲(ちくま文庫)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4480425578?tag=digitaro0d-22)
- 『フリーエージェント社会の到来 新装版——組織に雇われない新しい働き方』ダニエル・ピンク、池村千秋訳(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478029296?tag=digitaro0d-22)
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