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ショートストーリー

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時刻表を書いたのは誰か

午後四時十分、真鍋沙織は会議室の時計を三度見た。保育園の迎えは六時。「あと少しで終わるから」と言われてから、もう四十分が経っている。 育休から戻って半年。中堅の住宅設備メーカーで販促企画を担う沙織は、時短勤務を選んだ日から、仕事の半分を「途中で抜ける人」として過ごしてきた。夫の健司は同じ業界の営業で、帰りは毎晩九時を回る。家事の分担表は冷蔵庫に貼ってあるが、平日の欄はほとんど沙織の名前で埋まっていた。 「定時に帰れる部署に移るか、フルタイムに戻るか。どっちかだと思う」 課長の宮田は面談でそう言った。意地悪ではなかった。「会社として出せる選択肢は、この二つなんだ。ごめんな」 その週末、沙織は健司と分担表の前に座った。健司は申し訳なさそうに言った。 「俺が時短を取れればいいんだけど、うちの部で取った男はいないし、評価が……」 話は、いつもの場所で止まった。どちらが会社に譲るか。二人とも、譲る相手が会社であること自体は疑わなかった。 翌週、取引先の展示会で、沙織は三年前に辞めた先輩の柏木に会った。今は一人で、工務店向けに販促物の企画を請けている。 「毎日、何時に帰ってるんですか」 そう聞くと、柏木は笑った。 「帰るって発想がないんだよね。朝、娘を送ったら仕事して、午後は父の病院に付き添う日もある。夜中にやる日もあるし」 「それ、お客さんに怒られません?」 「怒られるのは約束を破ったときだけ。何時に座ってるかなんて、誰も見てないよ。見てたのは会社だけだった」 沙織は少し腹が立った。「柏木さんは特別だから」 柏木は首を振った。 「特別だったら、辞める前の三年間、あんなに悩んでないよ。僕も会社の枠の中で、一番マシな答えを探してた。時短か、異動か、転職か。でも全部、『どこかに勤める』って前提の中の答えだったんだよね」 「前提を変えたら、答えも変わるってことですか」 「変えなくてもいい。ただ、前提だって気づかないと、選ぶことさえできない」 その夜、沙織は分担表の横に白い紙を貼り、上に一行だけ書いた。 「誰との約束で、この時間に縛られているのか」 健司と二人で書き出していくと、意外なことが見えてきた。取引先との約束は、思っていたより少ない。多いのは出社時間と会議、そして「そこにいること」そのものだった。 健司がぽつりと言った。「俺の残業の半分って、客じゃなくて社内向けだな」 沙織はすぐに会社を辞めたわけではない。ただ翌月、柏木から回ってきた工務店のチラシの仕事を一件、副業の届けを出して引き受けた。子どもが寝てから二時間で仕上げ、翌朝送った。三日後、先方から返事が来た。 「次もお願いできますか」 報酬は小さかった。けれど沙織にとって、それは金額以上の意味を持っていた。自分の時間を、会社を通さずにお金に換えられた。一度できたことは、もう「できないこと」ではない。 月曜日、宮田課長にもう一度聞かれた。「で、どっちにする?」 沙織は答えた。「もう少し考えさせてください。三つ目の選択肢があるかもしれないので」 宮田はきょとんとした顔をしたが、それ以上は聞かなかった。 その夜、冷蔵庫の白い紙に、健司の字で一行増えていた。 「土曜の午前、俺も柏木さんに会ってみる」 時刻表は守るものだと思っていた。誰かが書いたものだと気づくまでは。

論考

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「どこかに勤める」という前提を疑う

序:解き方は前提の中にしか見つからない

共働きの家庭で、育児と仕事の両立が語られるとき、論点はたいてい決まっている。男性がもっと家事育児を担うべきだ、会社は時短や在宅勤務を広げるべきだ、国は家族への支出を増やすべきだ。どれも正しい。だが、これらはすべて「夫婦の双方がどこかの組織に勤め、決まった時間をそこに差し出す」という前提の上で、時間の配分を変えようとする議論でもある。前提が動かないかぎり、解き方は配分の調整に限られる。
問い:両立の議論の中で、出勤を前提としない選択肢はどれだけ検討されているか。

展開:時間を縛っているのは誰との約束か

自分で事業を営み、自分の裁量で稼いでいる人の一日を見ると、いつ寝て、いつ起き、いつシャワーを浴びるかに文句を言う人はいない。守るべきは顧客との約束であり、そのための外出もあるが、全体から見ればわずかだ。だから親が急に倒れれば、その日のうちに駆けつけられる。ここで縛りになっているのは「成果の約束」であって「在席の約束」ではない。一方、会社員の時間を細かく見ると、顧客との約束より、出社・会議・在席そのものが占める割合が大きいことが多い。夫婦の両方が成果の約束だけで働けるなら、どちらが会社に譲るかという争いは、そもそも起きにくい。
問い:自分の一週間のうち、社外との約束が占める時間は何割か。

反証:誰にでもできるわけではない

もちろん、これは誰にでもできる働き方ではない。収入は不安定になり、社会保険や信用の面で会社員より不利な場面もある。顧客を得る力、価格を決める力、自分を律する力が要る。この形で家族を養える人は、現状では限りなく少ないだろう。また、組織の制度改善や男性の家事参加の議論が不要になるわけでもない。大多数がいる場所の条件を良くすることには、それ自体に価値がある。
問い:自分が「できない」と判断した根拠は、試した結果か、試す前の想像か。

再構成:舞台を変えることを、考えてよい選択肢に戻す

それでも、「少数しかできない」ことと「自分にはできない」ことは別の命題だ。多くの人は、試す前に後者だと決めている。会社員であることを当然の前提として扱うと、それはもはや選択ではなくなり、検討の対象から消える。必要なのは、いきなり辞めることではない。副業の届けを出して一件引き受ける、自分の時間を会社を通さずに対価に換えてみる。そうした小さな試行で、「できない」を「まだやっていない」に置き換えることだ。一度できたことは、もう想像の中の不可能ではない。決められたルールの中で最善手を探すことと、ゲームの舞台そのものを選び直すことは、別の思考である。
問い:会社を通さずに対価を得た経験が、この一年で一度でもあるか。

示唆:思い込みは、やらない限り解けない

働き方の前提は、生まれつき与えられた条件ではなく、誰かが書いた時刻表に近い。それを守り続けるのも一つの選択だ。ただ、選択だと自覚して守るのと、前提だと気づかずに守るのとでは、取れる手が違う。できないと思い込んで何もしなければ、それは永久に実現しない。他人ができていることを、自分には無理だと言い切れる根拠を、一度点検してみる価値はある。
問い:家族の時間の問題を、配分ではなく舞台の問題として話し合ったことがあるか。

実務への含意

  • 自分と家族の一週間を「社外との約束」と「在席・社内向けの時間」に分けて書き出し、時間を縛っているものの正体を確かめる
  • 辞めるか残るかの二択にせず、副業の届けを出して小さな仕事を一件請け、会社を通さずに稼げるかを試す
  • 「できない」と決める前に、すでにその働き方をしている人に会い、違いが能力なのか試した回数なのかを聞く

参考文献

  • 『ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉』リンダ・グラットン(プレジデント社)
  • 『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)100年時代の人生戦略』リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット(東洋経済新報社)
  • 『フリーエージェント社会の到来 新装版 組織に雇われない新しい働き方』ダニエル・ピンク(ダイヤモンド社)

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